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赤旗の南京事件についての記事について・・・

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現地の式典に1万人/中国 南京大虐殺から78年
2015年12月15日(火) 現地の式典に1万人
中国 南京大虐殺 から78年 (写真)中国江蘇省南京市で開かれた
 南京大虐殺 ...
... =小林拓也】中国を侵略した旧日本軍が1937年に起こした
 南京大虐殺 から78年となった1
3日、江蘇省南京の「 南京大虐殺 遭難同 ...
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2014-15特報・論点 - 「しんぶん赤旗」
2014-15特報・論点 旧日本軍関係者が語る 南京大虐殺 /
2015年12月13日(日)
しかし、南京大虐殺は、「捏造」どころか、学問上も、
国際的にもみとめられた歴史上の事実です。

中国戦線の岡村大将/“市民に暴行は事実”
 旧日本軍の岡村寧次(やすじ)は、
1932年に上海派遣軍参謀副長に着任以後、
支那派遣軍総司令官として終戦を迎えるまで、
中国戦線を指揮した中心的な軍人です。
岡村は、戦後、防衛庁(当時)の戦史室に依頼されて
「戦場体験記録」をまとめています。
(『岡村寧次大将資料 上巻―戦場回想編―』として刊行)
…日本陸軍の中枢にいた人物が、当時から
「南京大虐殺」を事実として認めていたことは明らかです。
    
『岡村寧次大将資料第一 戦場回想編』1970年、302-303頁 は
編集されたものという疑義があるので、確実とはいえません。
      ↓
『岡村寧次大将資料』について
http://1st.geocities.jp/nmwgip/okamura/okamura.html 1 
(靖国偕行文庫所蔵)の文献資料の表紙はこれです。
 この通り、文献のタイトルは『岡村寧次大将回想録』です。
 『岡村寧次大将陣中感想録』というタイトルで、
偕行文庫に所蔵されている文献資料はありません。
 『岡村寧次大将回想録』の表紙を捲ると出てくる内表紙がこれです。
 「岡村寧次大将陣中感想録」というのは、
『岡村寧次大将回想録』の内表紙のタイトルです。
資料の状態から見る限り、この文献は当初、「岡村寧次大将陣中感想録」
というタイトルで編纂されたものです。
ただそれは、装丁も何もなく、
和文タイプを打った普通紙を綴じ込んだだけのものでした。
資料の毀損を防止するため、防水加工の厚紙で
「岡村寧次大将陣中感想録」を製本したのが『岡村寧次大将回想録』です。
 従ってこの資料は本来、『岡村寧次大将回想録』に収録されている
「岡村寧次大将陣中感想録」と言うべきものです。
 私は以前、Yahoo!掲示板に
『多分、前書き部分に「本書は岡村寧次大将の陣中感想録である」
旨が註記されていますので、これをタイトルと混同してしまっているのでしょう。
 学術書としては(誰の学術書とは言いませんが)、
引用資料のタイトルを間違えている時点で二流です。』
と書きましたが、これは言い過ぎでした。
『岡村寧次大将回想録』は「岡村寧次大将陣中感想録」を
製本したものですから、資料名としては
「岡村寧次大将陣中感想録」でも誤りではありません。
 しかし、(靖国偕行文庫所蔵)であるならば、
偕行文庫に所蔵されているのは『岡村寧次大将回想録』だけです
『現代歴史学と南京事件』は資料を収録した文献名を明示せずに
資料名だけを示すという、
素人のような杜撰な引用をしている本です、と言うべきでした。
 次に引用部分を比べてみるとこうなります。
句点で終っている引用部分末尾が実は読点であり、
その続きがあることがお分かりでしょう。
続きはこうなっています。

『・・・・最近湖口附近に於て捕獲せる中国将校は我等は
日軍に捕へらるれは殺され、後方に退却すれは
督戦者に殺さるるに由り唯頑強に抵抗するあるのみと言えりと云ふ
 上海には相当多数の俘虜ありて苦役に就かしめあり、
待遇必すしも適良と云ひ難し』

 これは『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』のこの部分に該当します。

『一 上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。
一 最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕えられれば殺され、
退却すれば督戦者に殺されるから、
ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。』

 『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』を読んだときも
違和感を覚えましたが、『岡村寧次大将回想録』では
その違和感をより強く覚えます。
 捕虜の多くを殺してしまうと言いながら、
その根拠として引用されているのは実際に捕虜として
保護されている中国軍の将校の証言です。
そして上海には、待遇が適切とは言い難いけれども、
多数の捕虜が使役されている現実がある、
それが『岡村寧次大将回想録』に書かれていることです。
 一体どういう意図でこの部分が切り捨てられているのか、
その詮索は横に置いておきましょう。
杜撰な引用をした著者の意図など、本来どうでもいいことですから。
 普通に判断すれば、これは
「日本軍に捕まれば殺されるという噂が流れているが、
実際には日本軍は中国兵を捕虜として収容している」
という結論になるべき事実です。
それが何故かこの後にも
「俘虜を殺す悪弊あり」と何度も出てきます。

 しかも観察された事実として述べられていることは
『昭和一三、一一、一九 A
 ・・・・俘虜を濫りに殺す悪傾向は
予の累次に亘る厳飭と云はんよりも部隊自身か
弱兵の背嚢や荷物を運搬せしむるの必要上
大機動后の今日は俘虜を同伴する傾向に転し来れり、
形而上的に覚醒せしに非すして形而下的の必要より生したるなり』

 と、捕虜を殺さず使役している事実です
(『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』では
「註 後には、荷物運搬のため
俘虜を同行せしめる弊も生じた。」がこれに当たります。)
 おそらくこれは、『岡村寧次大将回想録』
(に収録された「岡村寧次大将陣中感想録」)
の書かれた環境が影響していると思われます。
 『岡村寧次大将回想録』の内表紙の次のページには、
このような註記があります。
 手書きで補記されている部分を拡大するとこうなります。

この補記部分は重要な情報を含んでいます
 まず、この『岡村寧次大将回想録』は
日記等の当時の記録そのものではないということです。
 陣中感想録を「抜粋摘記」している、
つまり編集を加えているということになります。
 そうすると、それがどんな状況下で編集されたものであるか、
ということが内容に大きく反映してきます。
 その状況を示すものとして「終戦後戦地に於て」と説明しています
 岡村寧次大将は、終戦後支那派遣軍総司令官として、
中国軍に対する降伏手続き、日本軍の武装解除・武器引渡しと、
不当に武器引渡しを要求する共産党軍に対する抵抗指揮、
共産党軍の横暴や不当軍事裁判についての
国民党政府に対する抗議、日本兵の復員手続き、
そして自身の戦犯裁判の為、昭和二十四年一月二十九日の出航まで、
中国国民党軍に拘束されていました。
 その間蒋介石に厚遇され、蒋介石との個人的なコネにより
戦犯として処刑されることを免れています。
この事は、同年一月二十二日に蒋介石が大総統職を追われ、
替って臨時大総統となった李宗仁が無罪判決後再逮捕を命じたところを
間一髪で逃れている事実、帰国後岡村氏が「白団」を組織して
蒋介石を支援し続けた事実に裏付けられていると言えるでしょう。
帰国直前、帰国後の事情については
舩木繁著『支那派遣軍総司令官岡村寧次大将』
にこのように書かれています。

『・・・・中国政府は岡村の入監について遷延待機の策をとった。
連絡班を特設して還送工作等の任務を課し、
東京の軍事裁判の進捗を待ちながら世論の動向や、
国際関係の配慮からやむを得ず入監せしめた。
その後病気が悪化したため、秘密保釈が許されて今日に至り、
本日ついに無罪の判決となった。
岡村は中国政府、殊に蒋総統、国防部上層諸将軍の終始一貫の好意は、
真に感謝に堪えず、戦犯に服役している二百数十名の旧部下の
内地服役の実現に努めると共に、病癒えたならば
壮年時代からの宿志でもあり、
日中の提携に身を投じようと心にかたく誓っている。
 二八日夕、軍事法廷から、明朝六時半までに戦犯監獄に帰り、
他の者と共にアメリカ船に乗って帰国すべしとの命令を受けた。
 翌二九日午前八時半、日本人戦犯二百五十九名と共に乗船し、
三〇日午前一〇時出帆した。
 岡村は知らなかったが、李宗仁代理総統は
中共との和平に岡村の身柄を引渡すことを条件として、
再逮捕を命じたのである。
既述のように、中共軍は戦犯第一号として岡村を指名していた
 しかし、上海の湯恩伯はその命令を握りつぶし、
東京の中国代表商震も占領軍当局と協議して拒否した。
この間、この再逮捕の情報を察知した東京の代表団付武官王武少将は
アメリカ軍と連絡し、岡村収容のため船舶派遣を手配した。
このアメリカ船の横浜出帆を確認して、
国民政府は最終公判を開いたのである。・・・・』

『・・・・帰国後、岡村大将は、蒋介石総統の要請を容れ、
政治・経済的な問題を抜きにして、
ただ終戦時の恩義に報いるという名目で、
昭和二五年(一九五〇)二月、富田直亮少将を長とする
十九名の陸軍参謀を台湾に送った。
白団」と称せられるこの軍事顧問団は、
以後十五年間続き、団員の数ほ延八十三名に達した。
 この間、内地に残った岡村将軍は、幸いにも健康が回復したため、
「白団」の面倒を見ながら旧軍首脳の一人として
元軍人の在郷軍人会の設立に協力し、
郷友連盟に発展させて第二代の会長となった。・・・・』
(舩木繁著『支那派遣軍総司令官岡村寧次大将』 河出書房新社)

 つまり岡村氏は「終戦後戦地に於」ける期間、
蒋介石の意向を無視できない状態にあったと推測できます。
 『岡村寧次大将回想録』が書かれた状況を前記のように理解すれば、
『岡村寧次大将資料』前半部分に収録された
終戦後の日記の内容と、
後半部分の回想編の内容が矛盾している理由が説明できます
 『岡村寧次大将資料』前半部分に収録された日記と、
『岡村寧次大将回想録』は同一時期に書かれた物です。
その内容は、本来一致していなければならない。
 しかし、そうなってはいなかった

 おそらく『岡村寧次大将回想録』は蒋介石の意を受けて、
国民党の宣伝戦略に合致するように書かれた物です。
しかしそれは、岡村寧次大将がいくら軍の在り方に
不満を持っていた改革派、理想主義者だったとしても、
岡村氏本人にとり不本意なものだったのでしょう。
 それで、回想録とは別に、本当に自分の認識していた記録として、
日記を残したのだと思われます。
 だからこそ『岡村寧次大将回想録』は転載・公表を禁じられていたのだし、
『岡村寧次大将資料』も本人の生きている間は出版されなかったのでしょう。
(岡村氏の没年は1966年、『岡村寧次大将資料』の出版は1970年)

ところで、一口に軍紀の乱れと言っても、その程度は様々です。
一つの都市を攻め落とせば
千件単位の略奪・強姦が当たり前の軍隊では、
五百件の略奪・強姦の発生は
寧ろ軍紀が保たれた戦闘に分類されるでしょう。
 一方、常に二、三件の軽微な戦時犯罪しか発生しなかった軍隊が、
十件以上の略奪・強姦を発生させれば、
その時の指揮官は軍紀の乱れを強く非難されることになるでしょう。
 では『岡村寧次大将回想録』で認識されている軍紀の乱れとは
どの程度のものであったのか。次の記述が象徴的に示していると思います。

『昭和一三、一一、二〇 A
 漢口占領当時支那人及外人は南京攻略時の我軍大暴虐より
推察して我軍の暴行を予期せしが
案外に軍紀厳粛なりしかは民心大に安定せり
 然るに入城后二、三日にして第六師団其の他に
強姦事件二、三発生し謡言次で起り、
市中不安を招きたるは遺憾とする所なり
 予は武漢入城に際しては極力兵力を減少し
漢口に入れたるは第六師団の二大隊のみ
又第六師団も入城前随分厳格に訓諭するありしも
一年以来の悪習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず、
燦然たる戦功を樹てたる部隊が
遂に一汚点を印するに至りたるは遺憾なり
 被害者の多くは外人宣教師の許に遁れて
再難を防きたる為是等外人より我憲兵に告訴し来り事件は
世界的に喧伝せらるへし予は本日軍の宣撫規定を発布するに臨み
改めて是等非行厳戒の旨を訓示せり』

回想録の当該部分と照合することにより、
『岡村寧次大将資料』における「南京攻撃戦で前科のある師団」の
「前科」とは、主に掠奪・強姦であることが分かります。
 そして「二、三件」の強姦事件を以て
「一汚点を印するに至りたるは遺憾なり」と嘆き
「一年以来の悪習は容易に将兵全部を
改悛せしむるに至らず」と責めているのです。
 岡村大将の言う「軍紀の乱れ」というのが
どの程度のレベルのものなのか、これで分かると思います

 「二、三件」の強姦事件を「汚点」と嘆く指揮官が
千件、万件単位の強姦事件に関わっていた師団を、
如何に用兵上の都合があろうと
入城部隊として投入するはずがありません
数十件、どんなに多くても百件前後の強姦・掠奪、
それが岡村氏の言う「大暴行」の正体だと思われます。
(それが事実という確証もありませんが)
 また、「二、三件」の強姦事件が判明した経緯は、
被害者を保護した
外人宣教師の告訴によるものだったことも窺われます。
この遣り口は、南京安全区国際委員会による
日本大使館宛抗議と同じもの、つまり事件の多くは
外国人宣教師の主張の中にのみ存在するものだったのです。

旧陸軍将校の親睦団体/“非はわれわれの側に
 旧陸軍将校と元自衛隊幹部の親睦団体
「偕行(かいこう)社」は、機関誌『偕行』に
「証言による『南京戦史』」を連載します。
(1984年4月号~85年3月号)
…ところが、集められた証言は、先に引用したように、
「大虐殺」を認めるものが少なくなかったのです。
  ↑
『南京戦史』が明らかにした「南京事件」の実相
渡邉 斉己 2015年10月23日03:26 アゴラ
田原総一朗氏は、「記憶遺産登録の『南京大虐殺』を
日本は完全否定できるのか」〈週刊朝日〉と題する記事の中で、
南京事件の被害者数について次のような見解を示している。
「日本人の研究者が示すように、4万人にせよ6万人にせよ
大勢の中国市民が旧日本軍に殺されたのは事実なのである。」
はたして、これは事実だろうか。
おそらく、こうした見解は、
中間派とされる秦郁彦氏の不法殺害4万人説
(兵士3万、民間人1万
―2007年改訂版『南京事件』)の影響が大きいと思う。
秦氏は、この本で、軍人捕虜の不法殺害3.0万人、
民間人の不法殺害1.0万人、合計4.0万としつつ、
この4万の概数はあくまで最高限であり
「実数はそれをかなり下回るであろう」としている。

秦氏の『南京事件』の初版は1986年で、
ここには「最高限云々」の記述はなかった。
しかし、1989年に偕行社より『南京戦史』が刊行され、
南京事件」の実相が明らかにされたことで、
2007年の改訂版ではこのような「但し書き」が加えられた。
また、『南京戦史』による「不法殺害の規模」について
「単行本はすべて不法殺害とは言えぬがとの条件付きで
『捕虜や敗残兵、便衣兵を撃滅若しくは処断』した
兵士を約一万六千、
民間人の死者を一万五七六0人と推定した」と紹介している。

だが、この紹介だけでは秦説と『南京戦史』説の違いは分からない
そこで、以下『南京戦史』の見解を紹介する。
これによって、”南京事件では、
なぜ軍人捕虜等の殺害の当・不当の判定が困難か”。
また”意図的な一般市民の殺害があったかどうか”
が明らかになるからである。

南京戦史』は、南京戦における中国軍兵力7.6千人、
その内訳は、戦死約3万、生存者
(渡江、突破成功、釈放、収容所、逃亡)約3万、
撃滅処断約1.6万としている。この1.6万という数字は、
「捕虜や敗残兵、便衣兵を撃滅処断した実数を推定したもので、
戦時国際法に照らした不法殺害の実数を推定したものではない
これらの撃滅、処断は概して攻撃、掃討、捕虜暴動の鎮圧という
戦闘行為の一環として処置されたものである。
しかし、これらを発令した指揮官の状況判断、
決心の経緯は戦闘詳報、日記等にも記述がないので、
これらの当、不当に対する考察は避けた」としている

いうまでもなく、この1.6万というのは、
兵士の処断数であって、民間人の虐殺を含まない。
では、いわゆる「南京大虐殺」における
一般市民の殺害に関する記録はあるかというと、
「日本側にも中国側にもなく、第三国人の作った資料として
『南京地区における戦争被害』(スマイス調査)が唯一のものであり、
学術的かつ比較的公正なものと判断される」と言う。

では、このスマイス調査にはどのような数字が書き込まれているか。
「本調査」第四表によると、南京市部における、
12月13日~翌1月13日の間の兵士の暴行
(日付不明150を加える)による死者2,400、
拉致され消息不明のもの4,200、合計6,600となっている。
この数字は、その大部分が
日本軍の掃討期間(12月14日~24日)のもので、
かつ、「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」。

ここで注意すべきは、この6,600人は、
一般市民ではなく
この期間に掃討された兵士の数である可能性が大であること。
また、この掃討について『南京戦史』は、
「ことに城内安全区掃討(12月14日~24日)や
兵民分離(12月24日~13年1月5日頃)の際、
我が軍としては一応選別手段は講じたけれども、
便衣兵と誤ったケースもあったようであるが、
その最大の原因は安全区の中立性が犯され、
便衣の敗残兵と一般市民が混淆して
その選別が極めて困難になったことがある」としている。

また、スマイス調査における江寧県での死者9,160人という数字は、
あくまで城外の(調査した100日間)の死者数であり、
かつ「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」。
また、
我が軍の中国一般市民に対する基本的態度は、
これを敵視しないことであった
市民の被害は我が軍が
中国軍を攻撃し或は掃討などの戦闘行為をとったさい、
その巻き添えによってやむなく殺害された場合を除いて、
すべて個別的な偶発や
誤認の結果生じたものが圧倒的に多い」としている。

そして結論として、スマイス調査の
6,600人+9,160=15,760人という数字について
「この中には前述したように、戦闘員としての
戦闘死、戦闘行為の巻き添えによる不可避なもの、
中国軍による不法行為や、
また堅壁清野作戦による犠牲者などが含まれ、
さらにスマイス調査実施の際の手違いや作為も絶無とは言えない。
また、第四表の拉致4,200人の内、調査の時点では行方不明でも、
後日無事帰還した者や、たとえ帰還しなくても
生命を完うした者もあるかもしれない」ので、
「一般市民の被害者数はスマイス調査の
15.760よりもさらに少ないものと考える」としている。

ここで、一般的に南京大虐殺という場合、
日本軍が12月13日に南京を占領して後、翌1月までの間に発生した
中国軍民の不法殺害を問題にする。
従って、上述した城外の江寧県の死者を
「個別的な偶発や誤認の結果生じたもの」と見なして除くと、
市部調査の6,600人のみとなり、これは先に述べた通り、
城内安全区の掃討等において便衣兵と見なされ
摘出された人数と重複していると思われるので、
結局、「南京事件」においては、南京防衛軍司令官の
”敵前逃亡”によりパニックに陥り撃滅処断された兵士が
相当数いた(その中には不当なものもあった)ことは事実だが、
一般市民に対する計画的な不法殺害はなかった、ということになる

南京攻略戦の大隊指揮官真相を語る
― 謹つつしんで英霊に捧(ささ)ぐ―
「南京大虐殺」はなかった
森王琢(もりおうみがく)氏
(代表・三宅將之氏)で開かれた森王琢氏の講演記録です。

はじめに 南京総攻撃の概要 「南京大虐殺」論はなぜ起こったか
はじめに
 私は評論家でも歴史学者でもございませんし、
もちろん右翼というような者でもありません。
 ただ南京攻略に参加した1人の軍人です。
 
 昭和12(1937)年7月蘆溝橋事件(ろこうきょうじけん)勃発(ぼっぱつ)後、
9月に第16師団(京都)に動員下令、
私は歩兵第20連隊(福知山)中隊長として出征し
最初は北支に上陸、次いで師団は11月17日上海付近に上陸、
その後連日戦闘追撃を続け、
12月9日に南京の東北地区に進出しました。
 途中で連隊長の入院、大隊長代理戦死のため、
私が大隊長職を代行して大隊を指揮し、
南京総攻撃に参加致しました。
 
 南京は、昭和12(1937)年12月13日完全に占領されましたが、
私は翌年の1月下旬まで約1ヶ月余り、
南京及びその近辺で警備に任じられておりました。
 いわゆる「南京大虐殺」があったと言われているその時、
その場所にいて、当時の南京および
その付近の状況はこの目で見て、
この身体で体験している者であります。 
 私が今からお話します事は、
いわゆる「南京大虐殺」と言われている議論が、
本当はどういうものであるかという事を
知って頂き理解して頂いたならば、
1人でも多くの人に真相を語り伝えて
世間の誤った考えを正して頂きたいと考えております。
 当時第一戦において部下と共に戦い、
たくさんの部下を戦死により亡(な)くしました指揮官と致しまして、
「南京大虐殺」というような真に話にもならない暴論が
いかにも、まことしやかに伝えられ、
しかもそれを大部分の日本人が些(いささ)かも疑いを持たないで
信じている状態は、何としても我慢の出来ないことなのです。
 
 共に戦った戦友、ことに日本の将来を信じて
戦死して行った多くの戦友や部下に対して、
全く根も葉もない濡れ衣が着せられている事は、
私ども生き残った者にとっては、黙っていては
申し訳の無いことだと感じており、1人でも多くの人に
真実を知って頂きたい、そのために自分が役に立つならば、
どんなに遠くでもどんなに忙しくても出掛けて行って真実を話したい、
また下手な文章であっても書いて、
それを活字にして残しておかねばと願っているのであります。
【KSM】南京攻略戦の大隊指揮官真相を語る 
第一部、 第二部―謹つつしんで英霊に捧ぐ― 森王 琢氏 
KSMWORLD KSMELECTRONICS  2015/08/27 に公開
「南京大虐殺」はなかった 森王 琢
http://www.history.gr.jp/~nanking/mor...
「南京事件」日本人48人の証言-小学館文庫-阿羅健一
http://goo.gl/Z90rRV
中国の旅 (朝日文庫) 本多勝一
http://goo.gl/eOrmUa

2006/12/29(金) 午後 4:20

日曜版「しんぶん赤旗」
カテゴリー 1面 日曜ワイド ひと お役立ちトク報 
戦争法廃止の政府を 戦後70年を考える インタビュー戦 ...
... 市議団が抗議 名古屋市の河村たかし市長が
旧日本軍による 南京大虐殺 を否定する発言をした問題で、
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