慰安婦問題について、いろんな報道: 「命のビザ」にソ連の影 杉原千畝の活動を経済利益・軍事情報狙い“容認”か 露の歴史研究で判明。“命のビザ”発給の故杉原千畝氏たたえる 「スギハラ通り」がお目見え イスラエル中部で記念式典開催。一人芝居で伝えたい、外交官・杉浦千畝の心、水澤心吾(俳優)。

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2016年12月22日木曜日

「命のビザ」にソ連の影 杉原千畝の活動を経済利益・軍事情報狙い“容認”か 露の歴史研究で判明。“命のビザ”発給の故杉原千畝氏たたえる 「スギハラ通り」がお目見え イスラエル中部で記念式典開催。一人芝居で伝えたい、外交官・杉浦千畝の心、水澤心吾(俳優)。

杉原千畝
イリヤ・アルトマン教授 歴史学博士 2015年10月25日 Facebook
アルトマン教授は、旧ソ連地域におけるホロコースト
(ナチスドイツによるユダヤ人虐殺)の記憶の復活をすすめてきた。
1992年に旧ソ連やロシア連邦の歴史上初めて
「ロシアホロコースト研究教育センター」を設立した。
憎しみの犠牲者たち。ソ連におけるホロコースト1941-1945』の著者。
旧ソ連地域における約300万人を含め、総数では600万人をこえる
ヨーロッパ在住ユダヤ人絶滅の問題が、
なぜソ連では不問に付されてきたのか、
ソ連崩壊後のロシアでなぜ状況が一変したのか、
またリトアニアで日本国副領事杉原千畝から
日本の通過ヴィザを発給された数千人のポーランド系ユダヤ人に対し、
ソ連が1940年の夏ウラジオストクまでの通過ヴィザを発給するようにした
理由は何か(ソ連通過ヴィザなくして、ユダヤ人が
日本にたどり着くことはできなかった)などの問題を取り上げ、検討する。

2016.12.22 10:29 2 3 産経ニュース
「命のビザ」にソ連の影
露の歴史研究で判明
【モスクワ=黒川信雄】第二次大戦中に多くのユダヤ人を救った
“命のビザ”で知られる日本人外交官、杉原千畝(ちうね、
1900~86年)が進めたリトアニアからの救出劇の成功の背景には、
ソ連領を通過するユダヤ人から経済的利益や軍事情報を得ようという
ソ連側の狙いがあったことが、
ロシアの歴史研究家らの共同研究で分かった。
 杉原は第二次大戦中にリトアニアで日本領事館領事代理を務め、
ナチス・ドイツに迫害された数千人のユダヤ人が米国などに渡れるよう、
日本の通過ビザを発給した。
当時、日本政府は避難先の入国許可を得ていない
外国人に通過ビザを発給しない方針だったが、
杉原はそれに反してビザを出し続けたとされる。

 ただリトアニアから日本に向かうには、
当時のソ連領を通過する必要があった。
ソ連がなぜ大量の難民の通過を容認したかについては、
十分な研究はされていなかった。

 この問題をめぐり当時のソ連指導部間の書簡や回想録、
公文書館の資料、国営旅行会社の活動実態などに基づき
共同研究を進めたロシア・ホロコースト・センターの
イリヤ・アルトマン共同代表(61)は、ソ連当局が
ユダヤ人の自国領内の通過を承認した理由として、
「経済的利益」と「海外情報網の構築」という
2つの狙いがあったことを指摘する。

 第二次大戦の勃発後、外国からの観光客が途絶えたソ連にとり、
ユダヤ人難民は貴重な外貨収入源とみなされた。
ソ連は極東に逃れるユダヤ人をモスクワに送り、
ボリショイ劇場での観劇や高級ホテルへの宿泊などをさせた後に、
シベリア鉄道で極東ウラジオストクに移動させた。

 難民1人の“旅行代金”は200ドル程度だったと推定されている。
当時の200ドルは巨額で、多くの難民は親類や
慈善機関の支援などを受け、ようやく支払ったといわれる。

 またソ連は当時、海外情報を得るための諜報機関整備が不十分だった。
そのためソ連は難民らに情報収集活動への協力を働きかけていたという。

 杉原の軍事情報収集能力を
ソ連が高く評価していた実態も明らかになりつつある。
アルトマン氏によれば、ソ連が特に強い関心を寄せたのは、
同国によるリトアニア併合(40年8月)後、
杉原が赴任した独ケーニヒスベルク
(現在のロシア・カリーニングラード)での活動という。

 杉原は41年5月、現地に日本領事館を開設。
バルト海沿岸での独軍の移動の状況などから
独ソ戦争開戦(41年6月)のタイミングをほぼ正確に推測し、
モスクワの日本大使館、駐独日本大使、
日本外務省に電報で伝えていたためだ。

 当時ソ連は日本の暗号を解読する技術を有し、
日本側の情報はソ連側に筒抜けだった。
杉原が日本などに宛てた3通の電報をめぐっては
「ソ連の情報機関だけでなく、
政界指導部にもおそらく知れ渡っていた」という。

 さらにソ連は、日本がモスクワから極東に
鉄道輸送していた外交文書を撮影するために
列車内に専用設備まで設けていたといい、
ソ連当局が日本の情報を
極めて重視していた実態が浮かび上がっている。

 ロシア・ホロコースト・センターは
10月、モスクワで
杉原の活動を顕彰する国際フォーラムを開催した。


…杉原千畝氏は、決して独断でヴィザを発給したのではないし、
そのようなことは土台、不可能である。
彼は日本帝国政府の意思を忠実に遂行した一外交官でしかなかった。
杉原千畝の功績は、実は日本帝国政府の方針・功績でもある。 
そこが問題の本質であることを、ゆめ忘れてはならない。…

言葉を交わす杉原千畝氏のビザ発給を受けた男性(左)と
杉原氏四男伸生さん(共同)

スギハラ通り | Google Earth で街並散歩(ヨーロッパ編-2
[1991年(平成3年)- 9月、リトアニア政府の
功績を讚えるため、通りの一つを「スギハラ通り」と命名している。
 (wikipedia・ヴィリニュス関連項目より)]

)2016.6.7 20時19分 産経フォトニュース
「スギハラ通り」命名式典 イスラエル
イスラエル中部ネタニヤで7日、第2次大戦中に
ナチス・ドイツの迫害から多くのユダヤ人を救った
日本の外交官・故杉原千畝氏の名前にちなんで命名した
「スギハラ通り」の記念式典が行われた。
杉原氏の四男の伸生さん(67)も参加した。

 駐リトアニア領事代理だった杉原氏は、
ユダヤ人に査証(ビザ)を発給して多くの命を救った。
イスラエルは国民の多数がユダヤ人で、
杉原氏の功績を知る人が少なくない。 
道路の建設はこれからで、この日は通りの名を記した
標識がお披露目された。 
ビザ発給を受けた生存者らと対面した伸生さんは、
杉原氏の名前が付けられた通りを「名誉に思う。
(亡くなった杉原氏も)見守ってくれていると思う」と話した。 
ビザ発給を受けたニナ・アドモニさん(83)は
「温かい気持ちになった」と感激した表情だった。
杉原氏は1986年に死去し、今年は没後30年。(ネタニヤ共同)

イスラエル中部ネタニヤで7日、第2次大戦中に
ナチス・ドイツの迫害から多くのユダヤ人を救った
日本の外交官・故杉原千畝氏の名前にちなんで命名した
「スギハラ通り」の記念式典が行われた。
杉原氏の四男の伸生さん(67)も参加した。
 駐リトアニア領事代理だった杉原氏は、
ユダヤ人に査証(ビザ)を発給して多くの命を救った。
イスラエルは国民の多数がユダヤ人で、
杉原氏の功績を知る人が少なくない。
 杉原氏は1986年に死去し、今年は没後30年。
在イスラエル日本大使館などによると、
ネタニヤには、
杉原氏のビザで逃れた人が多くたどり着いたとされる。
(共同)
英仏タイ「すし」「伝統」 海外世論調査

水澤心吾のブログ

ラジオ深夜便
R1 NHK

9月29日(月) アンカー:遠藤ふき子 
午前4時台 〔明日へのことば〕アンコール         
一人芝居で伝えたい、外交官・杉原千畝の心
俳優 水澤心吾  (H26.8.13放送)
2014年8月13日水曜日 明日への言葉

水澤心吾(俳優)    一人芝居で伝えたい、外交官・杉浦千畝の心 
昭和25年滋賀県生まれ 高校卒業後上京し、劇団俳小に入団しました。
1977年天守物語の坂東玉三郎の相手役にオーディションで選ばれ、
本格的に俳優の道を歩み始めました。
その後NHKの連続TV小説「わたしは海」のヒロインの相手役を演じるなど
広くTV、映画、舞台で活躍しましたが、
30代後半でスランプに陥り、41歳で俳優の仕事を辞め、
心理学を学びました。

六千人の命のビザ(2005年、読売テレビ)
日本のシンドラー 杉原千畝物語 六千人の命のビザ iwan anec
終戦60年ドラマスペシャル 2005.10.11 放送分です

13年後に舞台に復帰し、2007年10月からは一人芝居、
「決断 命のビザ」を演じ続けています。
第二次世界大戦中、リトアニアで亡命を求める
ユダヤ避難民に日本通過を許可するビザ発給し、
ユダヤ人6000人の命を救った外交官・杉浦千畝の生き方を描いたものです。
水澤さんは杉浦千畝の決断と行動に強く惹かれ、
俳優としての使命感のあるものを演じたいとしています。
杉浦千畝の生き方を一人でも多くの人に伝えたいと、
1000回の公演を目指している水澤さんに伺います。
・・・
杉原千畝は外務省を解雇される。
名誉回復まで半世紀かかっている。


外務省
不遇の後半生から顕彰へ
1947年6月13日、岡崎勝男・外務次官から退職通告書が送付され、
6月7日に外務省を依願退職[脚注 39]
問1.戦前に在カウナス日本国領事館に勤務していた
杉原千畝副領事は、ユダヤ系避難民等に対して査証を発給し、
今日、その人道的行為が世界中で高く評価されています。
外務省として、杉原副領事の行動をどう評価しているのですか。
→外務省として、杉原副領事は、
勇気ある人道的行為を行ったと認識しています。

問2.杉原千畝副領事は、訓令違反を犯していたのですか。
→外務省において保管されている文書により確認できる範囲では、
昭和15年(1940年)当時、
「ユダヤ人に対しては一般の外国人入国取締規則の範囲内において
公正に処置する」こととされていましたが、杉原副領事は外務本省の
「通過査証は、行き先国の入国許可手続を完了し、
旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」
との指示にある要件を満たしていない者に対しても
通過査証を発給したと承知しています。
外務省としては、当時の状況下、杉原副領事は勇気ある
人道的行為を行ったと認識しています。
 

問3.杉原千畝副領事は、
訓令違反により外務省を懲戒解雇されたのですか。
外務省において保管されている文書により確認できる範囲では、
杉原副領事に対して懲戒処分が行われたとの事実はありません
 杉原副領事は昭和15年(1940年)のカウナス領事館

引き揚げの後も7年間にわたり外務省で勤務を継続し、
昭和22年(1947年)6月7日に依願退職しています。

正義の人(杉原千畝と樋口季一郎) その2■帰国
リトアニアを後にした杉原(杉原一家)はベルリンに行き、
そこの来栖大使の指示でチェコスロバキア、東プロセイン、
続いてルーマニアの領事となりその地で終戦を迎え、
しばらくの間ソ連の収容所に入れられていました。
1947年4月になってようやく帰国した杉原は
2ヵ月後突然の解雇を言い渡されま す。
「外務次官の岡崎さんの部屋に呼ばれて、〈君のポストはもうないのです、退職して戴きたい〉と言われた」
夫はポツリと言うと、黙り込んでしまいました。私は言葉を継ぐこともできません。ただ夫の顔を見つめているだけでした。
かなり後になって、岡崎次官に「例の件によって責任を問われている。省としてもかばい切れないのです」と言われたことを聞きました。(六千人の命のビザ)
『例の件』とは何か。
思いつくままに書きますが、いずれも納得できるものではありません。
まずビザ発行のことです。
しかし訓令違反による解雇というなら
それはビザ発行直後でなければならず、
その後の杉原はヨーロッパ 各国に領事として赴任していますし、
1944年ルーマニアにいた時には
勲五等瑞宝章を授与させているほどです
ですから外務省はリトアニアを去った後の杉原に
決して不利な扱いをしていないのです。
次に当時外務省は人員整理を行っていました。
これによる解雇なら、常識的に考えても奇妙な理由です。
(外務省に常識が通用するか否かは別として)
人員整理は能力の低い者から順にするものですし、
杉原のような有能な外交官にはあてはまりません。
1947年は米ソの冷戦がはじまっている時期であり、
杉原のようなソ連通の人材は外務省にとって不可欠だったはずです。
しかし人員整理による解雇の記録は残っているようです。
これは1992年3月11日第123回国会衆議院の予算委員会において、
草川昭三(公明党)の質問と外務大臣、総理大臣の答弁です。  
・・・
樋口季一郎
杉原千畝を紹介したなら彼のビザ発行の2年前、
当時の満州国にあってユダヤ人を救済した
樋口季一郎陸軍少将(1888~1970)。
外交官と軍人と立場は違いますが、
大勢のユダヤ人を救ったのは杉原だけではないのです。

オトポール駅
1938年(昭和13年)3月。杉原がビザを書く2年前のこと。
ソビエトと満州国の国境付近にあるオトポール駅では
多数のユダヤ難民 (数千人とも、2万人とも言われています) が
満州国に入れず足止めされていました。
彼らのほとんどが着の身着のままでドイツや周辺諸国を逃げ出し、
旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の人もいて悲惨な状況でした。
それ以前の満州国は
決してユダヤ人の入国を拒否していたわけではなく、
ハルピンにはユダヤ人街もあったほどです。
しかし今回は難民の数があまり にも多く、
ドイツへの思惑もあって満州国側は困惑し、その結果の入国拒否でした。
このユダヤ難民を救ったのが
当時ハルピンで特務機関長だった樋口季一郎なのです。
ティータイムの歴史話

1968年 28年経って元避難民 
新生イスラエルの参事官となっていたニシュリさんと再会する。 
ぼろぼろのビザを持ってきた。
イスラエルからは、杉原千畝はその後ヤド・バシェム賞」 表彰される。
(水澤氏自身も2008年12月にエレノア・ルーズベルト賞を受賞。)
一人芝居を開始してから、1年後だった。
ロサンゼルスで一人芝居を行って、

海外の方が杉原千畝を重く受け取っていますね。
「決断 命のビザ」を演じ、無条件の愛はどこから来るんだろう、

と言う事にぶち当たって、無条件の愛とは何なんだろうと、
また追求したくなり、無条件の愛とは何なんだろうと言う事を
追求させていただく事が私自身を非常に成長させて頂いていると感じる。
どう生きたらいいのかとか、生きる力はどこから来るのか、
回数を重ねているうちにテーマになって、少しでも感じたり、
少しでも見つけることが出来たら、お客様に対して
少しでもお役にたてる存在になるのではないかと、
知りたいし、掴みたいし、
もし具体的につかめたら、それが私の希望です。

結局希望がほしかった。
今この作品を通して、人様に希望を持ってもらったら、

と言う事がテーマになってきた。
杉原千畝は86歳まで生きたので、そこまでは生きて、

できれば1000回を達成したい。
私は希望をこの作品から頂いたので、

今度は見てくださる方に受け取ってもらえたらと思います。


検索キーワード「杉原千畝」に一致する投稿を

スピリチュアルカクテルY'sBAR VOL3 ゲスト 水澤心吾さん spistation
2013/05/07 に公開
Recorded on 2013/04/29 - Captured Live on Ustream at
http://www.ustream.tv/channel/spistation

2013年高島市人権のつどい TakashimaCity 
2013/12/05 に公開
【300人集い、人権の大切さ考える】12月1日(日)、
安曇川公民館で「高島市人権のつどい」が開催されました。  
表彰式のあと、高島市出身の俳優 水澤心吾さんによる一人芝居
「決断・命のビザ」〜杉原千畝物語〜が上演されたほか、ロ­ビーでは、
人権啓発パネルの展示などが行われました。

水澤心吾一人芝居「決断・命のビザ“SEMPO”杉原千畝物語」
2014年
11月15日(土)
水澤心吾一人芝居
決断 命のビザ~SEMPO杉原千畝物語~
東京・新橋 千代田区立内幸町ホール

開場:19:15~
開演:19:30~

2015年
1月22日(木)
水澤心吾一人芝居
決断 命のビザ~SEMPO杉原千畝物語~
東京・荻窪 杉並公会堂

開場:決まり次第告知します
開演:決まり次第告知します

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