慰安婦問題について、いろんな報道: 鳩山一郎・岸信介首相も真珠湾訪問…地元紙報道。真珠湾攻撃から74年 100歳で死去した元乗員の追悼も。【歴史事件簿】 パールハーバーの誤算(2) 職を賭した山本五十六の「奇襲」決断 …開戦は宣戦布告30分後 綱渡りの全軍突撃命令。日米はなぜ開戦に至ったのか …米も欲した満鉄利権、確執は満州での“すれ違い”から始まった。

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2016年12月24日土曜日

鳩山一郎・岸信介首相も真珠湾訪問…地元紙報道。真珠湾攻撃から74年 100歳で死去した元乗員の追悼も。【歴史事件簿】 パールハーバーの誤算(2) 職を賭した山本五十六の「奇襲」決断 …開戦は宣戦布告30分後 綱渡りの全軍突撃命令。日米はなぜ開戦に至ったのか …米も欲した満鉄利権、確執は満州での“すれ違い”から始まった。


鳩山一郎首相の真珠湾訪問を伝える1956年10月30日付の
「ハワイ報知」紙面(ハワイ報知提供)
岸信介首相の真珠湾訪問を伝える1957年6月29日付の
英語版「ハワイ報知」(ハワイ報知提供)

【ロサンゼルス=田原徳容】ハワイの日本語日刊紙
「ハワイ報知」は22日、1950年代に当時の鳩山一郎、
岸信介両首相がそれぞれ、
ハワイ・真珠湾を訪問していたと報じた。
 当時の同紙記事から判明したという。

 同紙によると、鳩山氏は56年10月、モスクワでの日ソ交渉の後、
帰国途中にホノルルに寄港し、海軍本部を訪問したとされる。
同紙は同年10月30日付紙面で
「鳩山首相きのう真珠湾を訪問」との見出しで、
写真とともに記事を掲載した。

 岸氏は57年6月に訪米し、アイゼンハワー大統領(当時)と会談後、
ホノルルを訪れたとされ、同紙が6月29日付の英語版で報じた。
別の日本語日刊紙「ハワイタイムス」(85年廃刊)も報道。
それによると、岸氏らは戦没者を埋葬する国立太平洋記念墓地
(パンチボウル)を訪れるなどしたという。

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2016年12月7日水曜日
【真珠湾攻撃から75年、安倍晋三首相真珠湾訪問】】真珠湾攻撃を経験の

7日、アリゾナ記念館に立つ真珠湾攻撃の生存者。
前列左がルー・カートンさん(共同)
7日、真珠湾のアリゾナ記念館で黙とうするハワイ州のイゲ知事
(前列左から3人目)ら(共同)
 
(CNN) 旧日本軍による1941年のハワイ・真珠湾攻撃から
74年目となる7日、犠牲者の追悼式が営まれた。
攻撃で撃沈された戦艦アリゾナの記念館では、同艦の乗員だった
元海軍兵ジョー・ランデルさんの遺灰を同艦に収める軍の納骨式が行われる。

ランデルさんは今年2月に100歳で死去した。
真珠湾攻撃を生き延びた元兵士の中では最高齢だった。

当時少尉だったランデルさんは、ハワイの海軍基地で
同艦が攻撃された当時は乗務していなかったが、
現場に駆け付けて生存者の救助や同僚の遺体の回収作業に当たった。

アリゾナに乗務していて死亡した米兵1177人の遺体の多くは、
今も海に沈んだ同艦の残骸の内部に取り残されている。
真珠湾に対する奇襲が引き金となって、米国は第2次世界大戦に参戦した。

アリゾナ記念館は1962年、同艦沈没地の海上に建設され、
国立公園局が管理している。

記念館では午前7時から午後3時まで、15分ごとに館内ツアーを行っている。
入館できるのは1日当たり4350人まで。
入場券はインターネットでも2カ月前から購入できる。 
1941年12月に旧日本軍が
米ハワイの真珠湾を攻撃してから74年となった7日(現地時間)、
犠牲者追悼の式典が同湾の海軍基地で行われ、
攻撃の生存者約50人を含む約4千人が黙祷をささげた。
 母親が日本人の米太平洋軍のハリス司令官は、終戦を迎えた70年前に
「(日米は)和解への道を歩み始めた」と演説。
「かつての敵は同盟国となり、激しい戦いが繰り広げられた
太平洋地域は安定している」と述べた。
 真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナ号に乗っていた
ルー・カートンさん(94)は当時20歳。
「逃げるのはとても大変だった」と振り返り
「(現在の)平和をうれしく思う。日本人は今は友達だよ」と話した。
 終戦から70年を記念した今年の8月15日には
真珠湾で日米友好を願う新潟県長岡市の「長岡花火」が打ち上げられた。(共同) 

パールハーバーとアリゾナ記念館&戦艦ミズーリ・ツアー  tphawaii.com
パールハーバー&アリゾナ記念館ツアー 詳細 Island Trip Hawaii
2014/01/02 に公開
IslandTripHawaii(アイランドトリップハワイ)のパールハーバー
&ア­リゾナ記念館ツアーの内容の一部を動画でご紹介

【歴史事件簿】パールハーバーの誤算(4完) 囁かれる「ルーズベルト陰謀説」
…あえて奇襲を受け日本を「悪者」に

【歴史事件簿】パールハーバーの誤算(3) 「トラ・トラ・トラ」奇襲するも米空母は不在

2015.4.17 15:00更新 産経WESTニュース
関西歴史事件簿2/5 3/5 4/5 5/5ページ)
パールハーバーの誤算(2) 
職を賭した山本五十六の「奇襲」決断
…開戦は宣戦布告30分後 綱渡りの全軍突撃命令
昭和16年12月、ハワイに向かう空母6隻を中心とする機動部隊に
8日の開戦を命じた連合艦隊司令長官の山本五十六(いそろく)大将だが、
宣戦布告 から30分後の攻撃という綱渡り的なスケジュールには
一抹の不安をもっていた。
「ここで手順を間違えば…」。
何度も外交手順に念を押したのは、赴任の経験 を通して
アメリカの力を十分にわきまえていたからにほかならなかった。
そんな中、当初の予定の8日未明、
広島・柱島沖に停泊中の戦艦「長門」の作戦室に
ハワイ攻撃機から全軍突撃命令の電波が届いた。

航空機で真珠湾を
 山本が航空機による真珠湾攻撃を初めて口にしたのは
昭和15年3月の合同訓練のとき。
航空機隊による対艦魚雷攻撃の見事な成果に上機嫌の山本は
「あれでハワイはやれないか」と、連合艦隊参謀長の福留繁少将に話しかけると、
福留少将は不思議そうな表情を見せたという。
 日本が描いていた対米戦は日露戦争の日本海海戦のように、
真珠湾から出てきた艦隊を度重なる潜水艦と航空機による攻撃で疲弊させた後、
日本近海で迎え撃つというものだった。
 だが、留学や海軍武官としてアメリカに赴任した経験を持つ山本は
底知れないアメリカの力を見ていただけに、思いも寄らない攻撃で
ハワイの太平洋艦隊を一気にたたくしか勝機はないとみていた。
 そこで目をつけたのが、昭和5年以来開発に携わっていた
航空機による攻撃だった。
山本は16年1月、第11航空艦隊参謀長の大西瀧治郎(たきじろう)少将に
作戦研究を命じる。大西はこの後、特攻隊の創設者として知られることになるが、
当時から山本同様、海軍きっての飛行機通だった。
 山本に作戦立案の可能性を聞かれた大西と、大西が声を掛けた
第1航空戦隊航空参謀の源田実(げんだみのる)中佐らが問題にしたのは、
真珠湾の水深だった。
  通常、魚雷を抱く雷撃機(らいげきき)が高度100メートルから落とした魚雷は
いったん水深60メートルまで沈むのだが、真珠湾の水深は12メートルしか ない。
このままでは海底に突き刺さってしまうので、航空機が海面スレスレから
魚雷を落とすことで差を詰めるしか方法がなかった。
 そこで真珠湾と地形がよく似る鹿児島・錦江湾での訓練では、
民家の屋根近くまで高度を落として飛んだことから、周辺の住民から
「近ごろの海軍さんはたるんどる」といった声が出るほどだった。

アメリカの絶縁状
 当初、「投機的だ」と航空機による対艦攻撃の効果に疑問を持っていた
海軍軍令部は山本の作戦に難色を見せていたが、
「作戦を認めなければ連合艦隊司令長官を辞める」という山本の固い決意に
驚き、渋々ながら認めたのが16年10月19日だった。
 一部にしか知らせず実施した猛訓練の結果、魚雷の深度を
10メートルまで引き下げるまでに上達すると、
出撃間近に考えた魚雷の両側に付けたベニヤ板のヒレが
予想以上に浮上効果を上げ、問題を解決する。
作戦は重大機密事項だけに、鹿児島で訓練を終えた艦隊は
大分県・佐伯湾に集結後、
北方四島の択捉(えとろふ)島・単冠(ひとかっぷ)湾に向かうが、
ここまでは一部の艦隊首脳部にしか作戦のことは知らせていなかった。
 11月22日、機動部隊の20隻以上にも及ぶ艦船が単冠湾に入港。
最後に空母「加賀」が着いた後の23日、
搭乗員、乗組員全員に作戦が告げられる。
 一方、日米交渉も最終局面を迎えていた。
 日本軍の中国撤退▽満州国承認▽通商関係の正常化
-などが主に話し合われたが、
日本が16年7月、フランス領インドシナに進駐したのを機に、
イギリスや中国、オランダも経済封鎖に加わる。
 そして11月27日、コーデル・ハル国務長官が突きつけたハル・ノートは、
日本軍の中国からの完全撤退のほか、アメリカの支援(日本は敵対)する
蒋介石政権の承認や日独伊三国同盟の廃棄を求めるなど、
絶縁状ともとれる内容になっていた。

宣戦布告と開戦
 これを受けて、日本は12月1日、
天皇が出席のもと米英蘭への開戦を決定すると、
宣戦布告の時間をワシントン時間で
12月7日午後1時(日本時間8日午前3時)としたうえで、
開戦は宣戦布告の30分後と申しあわせた。
 現地時間で6日午前6時半(日本時間6日午後8時半)、
東郷茂徳外相は駐米日本大使館にハル・ノートに対する覚書を
14部に分けて送ることを伝えた電文を送信。
昼過ぎまでに13部を送るが、長大な暗号電文だけに
解読だけでも時間がかかった。
ところが、この日は南米に転勤する一等書記官の送別会が予定されていたため
夕方までに8通を翻訳したものの、全員がオフィスをあとにする。
そして14部を受け取ったのは翌7日午前7時、
攻撃予定時間の6時間前だった。
 宣戦布告にあたる14部は短文だが、文書作成にはタイピストを使わず、
キャリア外交官が行うとした政府の指示通りにしたため
作業は困難を極め、昨日届いた13部も作成途上だった。
 その4時間半後の日本時間8日午前1時半(ワシントンは午前11時半)、
真珠湾北方約460キロに迫った機動部隊は攻撃機183機を、
その1時間15分後に171機を発艦させている。
 山本大将はそのとき、広島・柱島沖に停泊中の
連合艦隊旗艦「長門」の作戦室にいた。
山本は対米覚書をアメリカ政府に渡す時間について
幕僚に再確認後、目を伏せて微動だにしなかったという。
 攻撃機発艦の報告を受けたあとしばらく動きは停滞するが、
8日午前3時19分、突然に静けさを破るように作戦室のドアが開くと、
「全軍突撃命令であります」と息を切らせた声が室内に響いた。
 ハワイ攻撃隊の指揮をとる淵田美津雄中佐機から発信された電文だった。
(園田和洋)
      ◇
 真珠湾攻撃が初めて映画化されたのは、開戦1周年記念として、
昭和17年12月3日に公開された「ハワイ・マレー沖海戦」(東宝配給)。
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監督は山本嘉次郎(かじろう)。
特撮技術は円谷英二(つぶらやえいじ)が担当している。
映画の前半は予科練の訓練シーンが占め、
成長した少年が雷撃機の搭乗員として、
真珠湾攻撃に参加するといった内容になっている。
 製作スタッフはミニチュアを製作するにあたり、空母の見学や
撮影写真の提供を申し出るも軍部からの協力が得られない。
このため新聞の掲載写真を頼りに真珠湾のセットや
アメリカ艦船のミニチュアを作る。
 また攻撃機の発艦シーンでは雑誌に掲載された空母を参考に
実物大のセットを作り、本物の雷撃機など搭載させるなどで戦後、
映画をみたアメリカ軍が本物と見間違い、
東宝にフィルム提供を迫ったというほどに完成度は高い。
 戦後、円谷がこの映画をカラーでリメークしたのが
ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(東宝、昭和35年公開)。

2015.4.10 11:00更新 関西歴史事件簿
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パールハーバーの誤算(1) 日米はなぜ開戦に至ったのか
…米も欲した満鉄利権、確執は満州での“すれ違い”から始まった
今から74年前の昭和16年12月8日、旧日本軍はハワイ・真珠湾の
アメリカ太平洋艦隊を攻撃し、太平洋を舞台にしたアメリカとの戦いに突入する。 
当時、アメリカの生産力が日本の10~20倍もあったため
日本の軍部の中にも対米戦に消極的な声もあったのだが、
なぜ踏み切らなければならなかったのか。 
その原因は、真珠湾攻撃の36年前に日露戦争の講和を仲介した
アメリカとのすれ違いから始まっていた。

ターゲットは満州
 明治33(1900)年6月、欧州列国が相次いで清国に進出する中、
山東省で起きた排外運動「義和団の乱」がまたたく間に北京へと拡大していった。
 このため日本など8カ国が現地に住む自国民保護を目的に軍隊を出して
乱を鎮めたまではよかったが、各国は兵を引き揚げさせたのに対し
ロシアは兵を満州に送り込んできた。
 そんなロシアに強い危機感を持ったのが日本とアメリカだった。
 南北戦争後、欧州にならい支配力を広げたいアメリカは
ハワイ、フィリピンに続いて狙ったのが満州であり、日本も本土を
ロシアから守る防衛線として満州が必要だった。
 そしてロシアの進出を抑えるため、明治37年に起きた日露戦争で
日本を資金援助したアメリカが、日露両国の講和締結に積極介入したのも、
満州の利権が欲しかったからにほかならなかった。
 そこで講和締結後、アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマン
日本がロシアから得た権益のうち、
新京(長春)から大連間を走る鉄道(南満州鉄道)の共同経営を
1億円の財政援助とともに持ちかける
 明治36年の国家予算が約2億6千万円という時代の1億円である。
首相の桂太郎はハリマンの提案を歓迎して受け入れる。
ところが、ハリマンとすれ違いに帰国した外相・小村寿太郎は反対する。
多くの国民の犠牲を払って得た権益をアメリカと分けると
他国に足もとを見られるというのが理由だが、
最終的には奪い取られるといった疑いを持っていたとみられる。
 結局、桂は小村に従うのだが、
突然の破棄にハリマンの怒りは収まりがつかなかった。
以後、日本とアメリカは対極の立場をとるようになる。

対立深める日米
 こと満州のことになるとアメリカの態度は執拗(しつよう)だった。
明治42年、日露両国が握る満州内を走る鉄道の権益を中立化させて
自分たちを含む共同管理を提案したほか、清国と満鉄に並走する
鉄道建設なども計画するが、失敗に終わる。
 それでも諦めないアメリカは大正11年、ワシントンに
主要9カ国を集めた軍縮会議を開催すると、日英同盟破棄や
清国崩壊後に成立した中華民国への進出の抑制など
日本の弱体化を狙った合意を引き出す。
 さらに満州を治める張作霖(ちょうさくりん)政権と
満鉄に対抗する鉄道建設と同時に、満鉄とつらなる大連港に対抗し、
大連と渤海(ぼっかい)湾を隔てた対岸に位置した葫芦島(フールータオ)に
貿易港の建設も計画。中国の抵抗もアメリカの支援のもとで強まっていった。
 そんな中、昭和6年に奉天郊外で起きた満鉄爆破事件に端を発した
中国との武力衝突(満州事変)に続いて、6年後には
北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で中国・国民党軍との紛争が発生するなど
戦線は拡大する一方だった。
 そんな強気の姿勢を崩さない日本に業を煮やしたアメリカは、
「中国でのアメリカの権益が日本軍に侵害された」として
14年に日米通商航海条約破棄を通告する。
つまり、資源に乏しい日本にガソリンや鉄など
戦争継続に必要な物資の輸出を禁じたことで
日本の弱体化を図ろうとしたのだ。
 はじめは動揺を隠せなかった日本だったが、
東南アジアの資源地帯に目をつける。
当時、協調関係にあったドイツがフランスに勝っち、
フランス領インドシナ(仏印=現在のベトナム・ラオス・カンボジア)が
パックリ口を開けて待っていたからだ。
 だがアメリカにとっても仏印は、中国側に物資を送る
輸送ルート上にあったたため、日本軍の仏印進駐を強硬に反対する。

ニイタカヤマノボレ
 昭和15年、日本軍はそんなアメリカのいらだちを知りながら
北部仏印に進駐すると、ドイツ、イタリアと軍事同盟を締結。
16年には南部仏印に進出したことで
アメリカとの対決姿勢はさらに鮮明となった。
 そんな状況下、連合艦隊司令長官の山本五十六大将は、
アメリカと戦うならばまずハワイのアメリカ太平洋艦隊を潰し、
その後の戦いを優位に進めるしかないとして航空機による攻撃を計画する。
 航空母艦(空母)6隻と航空機400機という
世界でも類例のなかった機動部隊を編成すると、対米交渉中にもかかわらず、
宣戦布告直後の奇襲攻撃を狙って11月22日、ハワイに進路をとった。
 それから10日後にあたる12月2日、
荒れ狂う太平洋上を進む空母「赤城」の艦橋内で、
機動部隊の指揮をとる南雲忠一中将は依然として定まらない
対米交渉の行方を気にしながら、
雨と波がたたきつける窓の外をみつめていた。
 結果次第では引き返すことも考えられたが、午後5時半、
ドアが開き、やや興奮の様子で入ってきた通信参謀が
「長官、電文であります」と
山口の連合艦隊から送られた電文を差し出してきた。
南雲が「読め」と静かに指示すると、しっかりした口調で
「本文、ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」と読み上げた。
12月8日に開戦すべしとする内容だった。
 ニイタカヤマ(新高山)は、日本が当時、
統治していた台湾の山(現在名は玉山)。
標高が3、952メートルと富士山より高い、日本の最高峰だった。
 電文を聞いた南雲は隣の参謀長、草鹿龍之介少将の方を見て、
「うまくいくのかな」と話しかけたともいわれている。
     
当時の世相映した国策映画「潜水艦1号
 対中戦争を進める日本は昭和14(1939)年に映画法を制定すると、
「海軍爆撃隊」「燃ゆる大空」などといった、娯楽色を廃して
軍国主義を強めた映画の製作を強制的に進めるようになる。
「潜水艦1号」もそんな1本。
 アメリカと対決色を強めていった昭和16年5月に公開されている。
明治43年、技術的に未熟の域にあった潜水艇の艇長として乗り込んだ
久間勉大尉は沈没事故で生命が絶望視される中、
冷静に艇内の様子を記録した精神力は当時の軍人の手本ともされていた。
 映画は、そんな佐久間大尉の故郷で育った少年2人のうち、
1人がのちに潜水艦の設計士として最新鋭艦を設計し、
もう1人が艦長としてその艦に乗り込んで
試験航海に臨むといった内容になっている。
 まだ戦闘シーンがあるわけではないが、
「必ず米英と戦うときが来る」と艦内の居住性を廃して、
武器などに重点を置いて新鋭艦開発を進める姿に、
当時の緊迫した世相を垣間見ることができる。   
(園田和洋)   =続く

1 件のコメント:

  1. 冷静に考えると、ハワイはアメリカの植民地ですよね。リリウオカラニ女王が逮捕・幽閉される。アメリカ合衆国からの入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによって経済的にも力をつけはじめると、より親米的な政治を求める声が特に経済界から強くなった。1887年にクーデターが起こり、カラカウアは修正憲法(銃剣憲法(英語版))の成立を承認せざるを得なくなった。この「銃剣憲法」によって国王の権限は制限され、枢密院や内閣の政治的影響力を高めた。選挙権についても、アジア系移民から一切の投票権が剥奪された他、先住ハワイ人も投票権に収入や資産などの一定の基準を設けたことで、多くの人々が選挙権を剥奪された。一方で、ハワイ人エリートや富裕なアメリカ系・ヨーロッパ系移民は選挙権を所持したままであり、政治的発言力が劇的に強まった。結果として、「銃剣憲法」によりハワイ王室と大多数のハワイ人は政治力を失い、白人農場主らを中心とする共和派が王国の実権を手にした。ハワイ王国は対米従属を余儀なくされ、ハワイ王国の滅亡はこれに始まる。アメリカの州になるのは1959年。

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