慰安婦問題について、いろんな報道: 【今週の御皇室】「譲位」の議論と「御公務」の在り方とは。【天皇陛下「譲位」ご意向】譲位「将来も可能に」 お気持ち表明前、旧友に託される。天皇陛下、退位恒久制望む 電話受けた学友証言「お言葉」20日前。〈生前退位 私の考え〉「ヴァイニング夫人」の教え、明石元紹(ご学友)。75年来の「学友(明石元紹氏)」が明かした 「素顔の天皇・皇后」。天皇陛下御即位二十年を寿ぎて、明石元紹さんに聞く 平成21年02月、日本会議。

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2016年12月1日木曜日

【今週の御皇室】「譲位」の議論と「御公務」の在り方とは。【天皇陛下「譲位」ご意向】譲位「将来も可能に」 お気持ち表明前、旧友に託される。天皇陛下、退位恒久制望む 電話受けた学友証言「お言葉」20日前。〈生前退位 私の考え〉「ヴァイニング夫人」の教え、明石元紹(ご学友)。75年来の「学友(明石元紹氏)」が明かした 「素顔の天皇・皇后」。天皇陛下御即位二十年を寿ぎて、明石元紹さんに聞く 平成21年02月、日本会議。

【今週の御皇室】「譲位」の議論と「御公務」の在り方とは[桜H28/12/1]
【Front Japan 桜】朴大統領と朝鮮半島の行方-西岡力氏に聞く
[桜H28/12/1] ご学友報道について…
2013年9月22日に学習院大で行われた早大との馬術定期戦での一コマ。
挨拶を交わす両陛下と明石氏の関係の深さが窺える〔PHOTO〕雑誌協会
今上天皇 つくらざる尊厳 級友が綴る明仁親王
単行本 – 2013/12/6 明石 元紹 (著)
明石氏の目から見た天皇の素顔や
貴重なプライベートでの様子が収められた実録集
学友の明石元紹(あかしもとつぐ)氏(82)
容認か否定的か専門家16人拮抗
天皇陛下の譲位をめぐる有識者会議は3回にわたり
計16人の専門家からヒアリングを行ったが、賛否は拮抗していた
=30日午前、首相官邸(斎藤良雄撮影)

2016.12.1 08:19 【天皇陛下「譲位」ご意向】 産経ニュース
譲位「将来も可能に」 お気持ち表明前、旧友に託される
天皇陛下が8月に「譲位」の意向を示す
ビデオメッセージを公表する前の7月下旬、
譲位に関して「将来を含めて可能な制度にしてほしい」と、
恒久的な制度を望む考えを
ごく近い知人に打ち明けられていたことが30日、分かった。
メッセージと同様、摂政に否定的な考えも示されていた。
譲位のあり方について、
陛下の具体的なお考えが明らかになるのは初めて。
 この知人は学習院幼稚園から高等科まで
同窓の明石元紹(もとつぐ)氏(82)。
その後も馬術などを通じて親交を続けている。

 明石氏によると、譲位のご意向が
7月13日夜の報道で表面化した後の同21日夜、
陛下が明石氏に電話で連絡を取り、譲位について
「随分前から考えていた」
「これは僕のときだけの問題ではなく、
将来を含めて可能な制度にしてほしい」と伝えられた。
 陛下は明治以前の歴代天皇に譲位の例が多数あったことにも触れ、
「譲位によってよいことも悪いこともあったのは確かだ。
ただ、譲位は何度もあったことで、僕が今そういうことを言っても、
びっくりする話ではない」と語られた。
 皇室典範で規定された摂政には、大正天皇の例を挙げて
「大正天皇をお守りしたい人と、摂政の昭和天皇を
もり立てようとする人とで国が二分した」として、
「摂政は良くないと思う」と指摘されたという。
 明石氏は「当時、報道各社の取材を受けていた私に
真意を伝えたいとの思いがあったのではないか」
と陛下のご心情を推し量った。

【天皇陛下譲位】有識者会議ヒアリング終了 特措法に10人が反対、

天皇陛下 退位恒久制望む
2016年12月1日 朝刊 東京新聞
天皇陛下が八月にビデオメッセージを公表する
約二十日前の七月、退位について恒久制度を望む思いを、
学友の明石元紹(あかしもとつぐ)氏(82)に
電話で打ち明けていたことが、明石氏の証言で分かった。
陛下は
「将来を含めて譲位(退位)が可能な制度にしてほしい」
と語られたという。
 私的な会話とはいえ、退位の在り方について
陛下の具体的な考えが明らかになったのは初めて。
父である昭和天皇の大正時代の経験を踏まえ、
摂政設置によって混乱が生じることへの懸念も示したという。

 明石氏は
「陛下からの電話だったので内容を注意深く聞いていた」
と話した。

 明石氏は学習院幼稚園から高等科までの学友。
七月十三日夜の報道で退位の意向が明らかになった後の
同二十一日午後十時ごろ、陛下の身の回りの世話をする
内舎人(うどねり)から
「陛下が直接お話ししたいと言っている」と電話を受けた。

 明石氏によると、陛下は退位について
「随分前から考えていた」
「この問題(退位)は僕のときの問題だけではなくて、
将来を含めて譲位が可能な制度にしてほしい」と話した。

 明治時代より前の天皇に関しても触れ
「それ(退位)がいろいろな結果を生んだのは確かだ。
譲位は何度もあったことで、
僕が今そういうことを言ったとしても、
何もびっくりする話ではない」と語ったという。

 「摂政という制度には賛成しない」と明言。
理由として、大正天皇の摂政だった昭和天皇の例を挙げ
「(大正天皇派と昭和天皇派の)二派ができ、
意見の対立があったと聞いている」と振り返った。

 明石氏は
「私は多くのメディアの取材を受けていたので、
間違ったことを言ってほしくない、
真意を伝えたいとの思いがあったのではないか」
と心情を推し量っている。

◆「僕の時の問題だけではない」と陛下

明石氏の主な証言内容 
 天皇陛下とのやりとりに関する
明石元紹(あかしもとつぐ)氏の主な証言内容は次の通り。

 私が(皇后の)美智子さまの体調について以前、
テレビで「お体が悪いのではないか」
ということを語ったことに対して、
陛下は
「美智子のことを心配して、
譲位を訴えているようにとられるので困る。
そういうことを言うと、
既成事実になってしまうから言わないでほしい」と話された。

 陛下は
「今度の(退位の)話については、僕は随分前から考えていた。
天皇の在り方は歴史上いろいろな時代があった。
特に明治以前の天皇については途中で譲位をしたり、
いろんな形でいらした天皇はたくさんいる。
それが、いろんな結果を生んだのは確かだ。
けれど、譲位は何度もあったことで、
僕が今、そういうことを言ったとしても、
何もびっくりする話ではない」と話した。

 陛下は「摂政を置いた方が良いという意見もあるようだが、
僕は摂政という制度には賛成しない。
その理由は、大正天皇のときに、
昭和天皇が摂政になられたときに、
それぞれの当事者(大正天皇と昭和天皇)として、
あんまり、こころよい気持ちを
持っていらっしゃらなかったと思う」と話した。

 陛下は「その当時、国の中に二つの意見ができて、
大正天皇をお守りしたい人と摂政の昭和天皇を
もり立てようとする二派ができ、
意見の対立のようなものがあったと聞いている。
僕は、摂政は良くないと思う」とも語った。

 陛下は「この問題(退位)は
僕の時の問題なだけではなくて、
将来を含めて
譲位が可能な制度にしてほしい」と話した。

 陛下からの電話だったので内容を注意深く聞いていた。

◆冷静に考えるのが筋
 評論家の八幡和郎(やわた・かずお)さんの話 
八月の天皇陛下のお言葉を聞き、
退位を容認すべきだとする国民の気持ちがある。
今回も、陛下が恒久的な制度を望んでいるという意向を
尊重すべきだという国民感情が大きくなるだろう。
大正天皇と摂政となった昭和天皇のことを踏まえ、
陛下が退位制度を望む気持ちを持ったことは、
心情として理解できる。
だが、制度を改正するなら、
将来に起こり得るさまざまな状況を想定しながら、
陛下の意向とは切り離し、冷静に考えるのが筋だろう。

◆4歳から遊び相手 学友の明石元紹氏
 明石元紹氏(82)は幼稚園に入った四歳から、
天皇陛下の住まいがあった東京の赤坂離宮に通って
遊び相手を務めたほか、一緒に疎開を経験するなど、
戦前から現在まで同じ学年の学友として関係が続いている。
明石氏は一九三四年一月、貴族院議員を務めた
男爵元長(もとなが)の長男として誕生し、
天皇陛下とは学習院初、中、高等科で共に学んだ。
祖父元二郎(もとじろう)は第七代台湾総督、
伯父の堤経長(つつみつねなが)は昭和天皇の学友。

 戦前の初等科時代は天皇陛下と共に栃木の日光へ疎開し、
終戦を経験。戦後は、天皇陛下の家庭教師として
米国から来日したバイニング夫人の授業も一緒に受け、
高等科では馬術部のチームメートとして友情を築いた。

 天皇陛下が学習院大、明石氏は慶応大と
進路が分かれた後も絆は変わらず、
二〇一三年に出版した
「今上天皇 つくらざる尊厳」では
「その在りようは精神力と努力の蓄積だけのものではなく、
生まれながらの宿命と対峙(たいじ)する
精神的な気高さが存在する」と記した。

 ゆっくりと話す機会は減っているが、
クラス会や記念行事では必ずあいさつを交わし、
外国訪問時には皇居の御所で送迎することもある。
退位を巡っては「象徴天皇としての在り方を考え抜いた末、
結論としてのお気持ちの公表だと思う。
陛下は子どもの頃から、
視野の広さや物を見る高さが違っていたように思います。
人はどうしても自分の立場にしがみついてしまうものですが、
陛下には生まれながらに背負った宿命がある。
だからこそ陛下には私利私欲が全くありませんでした。
小さな頃というのは、誰しも自己中心的になりがちですが、
陛下は「人のために」という視点でいらっしゃいました。

 報じられている通り、
陛下は全ての公務に全力で取り組んでおられます。
昔から真面目で、いいかげんなことが嫌いで、
何に対しても正面から向き合うところがありました。

 陛下はお言葉の原稿も全てご自身でお考えになります。
こうした「自分の意志で動く」という陛下の根底には、
少年時代、陛下の家庭教師を務めた
ヴァイニング夫人の教えがあるのだと思います。
ヴァイニング夫人の教えは、端的に言うと
「人はロボットになってはならない」ということです。
人に言われてから動くのは人間ではない。
自分の意志を持ち、それにしたがって行動する。
その上で「天皇を演じ」なければならないということです。
この教えを、陛下はいまでも実践されているのだと思います。
用意されたものに従っているだけではいけない、と。
今回のことも、ご自分のためではなく、
国のために判断して、天皇としてあるべき姿を
務められないのであれば
国民に申し訳ないと判断されたのでしょう。

 今年の3月には、学習院初等科の同級生だけの
クラス会が催され、陛下もご出席されました。
参加者は20人くらいでしたが、その中では
陛下が一番しっかりしていたのではないでしょうか。
陛下は大学の同窓会などにもご出席されますが、
そういう席ではどうしても陛下のところに挨拶の列ができてしまい、
公務の延長のようになってしまいがちです。
3月のクラス会の際は、3つ用意したテーブルに
陛下の席をそれぞれ準備し、皆と話をしていただきました。

 これまで、特に最近、陛下と接してきた中でも、
陛下に退位のお考えがあることは感じませんでした。
そこまで客観的にご自身を見ていらっしゃったのか。
そこまで責任感が強くあられたのか、と改めて感じております。
もし報じられているように、生前退位のお気持ちがあるとすれば、
それは大変良いことだと思います。
陛下のご負担を減らし、
皇太子さまに引き継がれるのは大変合理的なことだと思いますから。

 皇太子さまも、陛下が即位した年齢を既に超えておられます。
「摂政をおけばいい」という意見もあるようですが、
陛下としては、ハッキリとしない形は嫌で、
退位、譲位という形を望まれているのかもしれません。

スペシャル・インタビュー 明仁天皇と接した75年
2014年1月1日 現代ビジネス
● 疎開先でも両親に会えない孤独
● 中学時代のあだ名は「チャブ」
● 三島由紀夫の思想を警戒していた
● 美智子皇后との出会い
間もなく傘寿を迎える明仁天皇。
青春時代をともに過ごし、つぶさに見てきた級友が語った、
若き日の素顔。「滅私の人」は、いかにして生まれたのか。
そして見えてきた、「平成皇室」のルーツとは。


75年来の「学友(明石元紹氏)」が明かした
「『国民とともに歩む皇室』と発言された陛下のお気持ちが
どのように形成され、そしていま、どのようなお覚悟なのか。
陛下の心臓手術をきっかけに、私は幼少のころから
75年もの長きにわたって今上天皇を垣間見てきた
学友としてどうしても記録に残さなければいけないと思ったのです。
陛下は、皇室が日本人の手の中にあるというお考えなのです。
皇室を日本人の誇りだと思ってくれる人々やそうでない方々にも、
天皇皇后両陛下はわが身を顧みることなく、
国や国民のためにあるべき皇室の姿を示されてきた。
陛下は、自らの死など微塵も考えずに働き続けておられる。
そうした陛下のお考えを書きのこさなければ、
日本の皇室は次代、
その先につながらないと考え、筆をとったのです。
少しでも多くの方々に
わかっていただけたらという思いで書き上げました」
 そう語るのは、12月5日に
今上天皇 つくらざる尊厳』(講談社)を上梓した明石元紹氏。
明石氏は、司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いた
〝伝説の軍人〟明石元二郎の孫で、
伯父もまた昭和天皇の学友であるなど、
天皇家との縁深い名家に生まれ育った。
明石氏は天皇と女子学習院幼稚園時代から
今日までずっと側にいて、親王、皇太子、天皇と
それぞれの時代をつぶさに見続けた学友の一人。
同書では、戦時下でともに沼津、日光に疎開した経験や、
学習院高等科の3年間、
馬術部で同じ釜の飯を食べた思い出などが綴られている。
12月23日で80歳の傘寿を迎えられる天皇の素顔を、明石氏が話す。
「最も印象的だったのは、昨年、
陛下が心臓手術を受けられたときのことです。
陛下は、記帳に来られた数万人の方々のお名前を
すべてご覧になっていました。
これにはとても驚かされました。
また、天皇皇后両陛下は目に入れても痛くない皇太子に対して、
ややもすれば突き放すこともありました。
ただ、それも天皇となるべき自覚を
覚醒させようという思いがあってこそ。
『私』を大切にしながらも、『公』を重んじた
陛下の厳しさは私たち学友にも影響を与えました。
陛下の学友であった、
故・安西邦夫東京ガス元会長の叙勲の際には、
決して学友のよしみを見せず、
お立場を貫かれる厳格さをお持ちだった。
安西は、そのような陛下に感服して世を去ったのです」
 安西氏は学習院初等科時代からの陛下の級友である。
気の置けない間柄ではあっても叙勲式の場では
決して友人であるような振る舞いをされなかった。
そんな陛下の公私を峻別する
厳しさに学友たちは心を打たれたのだろう。

合葬辞退の背後にある思い
これまでに刊行された皇室関連本は美智子皇后については
あまり多くを語っていない。
だが、同書では次のようなエピソードが明かされている。
〈これはある宮内庁職員のひとから聞いた話である。
昭和の時代は、陛下のご診察についても、
玉体に触れるということで科学的ではなかった。
昭和天皇の最晩年、ご発病の発端になったときのことである。
お誕生日のお身内だけの祝宴の際である。
晩餐の席上、突然、嘔吐された。大らかなご性格と、
特殊な習慣から、あたりを憚らず大量の嘔吐だった。
その時、ご出席者並びに周りにいた職員は、
あまりのことにただ驚き、
呆然として介護すらできなかった。
当時の皇太子妃美智子さまが、ただ一人、
隣室に仰向けに倒れておられる昭和天皇のネクタイを弛め、
胸を拡げて介護し、侍医を呼ばれたという〉
 初めて民間から皇室入りした美智子皇后は、
このときから天皇への畏敬の念を持ちながら、
皇室の慣習を恐れぬ献身を実践していたのである。
そして、それは11月14日に宮内庁から発表された
天皇と皇后の火葬と陵墓の縮小の強い希望につながり、
天皇陵への合葬を拒んだことに表れている。
 同書は「国民とともに歩む皇室」を目指された
天皇皇后両陛下の苦闘の年表でもあるのだ。
「フライデー」2013年12月20日号より


天皇陛下御即位二十年を寿ぎて  明石元紹さんに聞く
平成21年02月11日 日本会議
忠恕(ちゅうじょ)の大御心
陛下の「ご学友」・元日産陸送(株)監査役 明石元紹さんに聞く

(※『日本の息吹』21年5月号より)
あかし もとつぐ   昭和9年1月、東京都生まれ。
貴族院議員明石元長の長男、
祖父は台湾総督・陸軍大将の明石元二郎。
昭和13年より学習院高等科卒業まで皇太子殿下(今上陛下)の
「ご学友」としてお側に。慶応義塾大学経済学部卒業後、
プリンス自動車に入社。日産プリンス東京販売(株)取締役、
日産陸送(株)監査役。
その他、日本李登輝友の会・初代理事を務める。

天皇陛下御即位二十年に際し、
各界からの声を寄せて頂きます。

●戦中、戦後の陛下
― ご学友となられた経緯は?

明石◆祖父の明石元二郎が
男爵の爵位を頂戴したことがきっかけの一つです。

私は陛下御誕辰の約半月後に生まれ、
名前も、陛下のご幼名の「継宮」に肖(あやか)っています。
祖父(元二郎)と父(元長)の「元」に「つぐ」をくっ付けて、
さすがに同じ「継」の漢字は畏れ多いので、
「紹(つぐ)」の字を当てたのです。

陛下の御側に上がったのは、
女子学習院付属幼稚園に入園したときが最初でした。
それから学習院高等科までずっと同じ学年でご一緒しました。

学習院初等科に入学した年の暮れに、
大東亜戦争が始まるのですが、すでに入学前から
日米間は不穏な空気となっており、
それまで学習院院長だった野村吉三郎海軍大将が
急に駐米大使に任命され、私たちの入学式のときに、
お別れのご挨拶をなさいました。

戦局が激しくなって殿下(今上陛下、以下同じ)と
私たちは沼津から日光、そして奥日光の湯元へと
疎開先を転々としました。
終戦の少し前、原子爆弾が落とされた後の頃、
三大紙の一面に、疎開先の殿下のお写真が
大きく載ったことがありました。
あとで知ったことですが、万が一敗戦となって
昭和天皇が退位なさる可能性なきにしもあらず、
との国民の不安を払拭するため、皇位継承者の
殿下のご壮健な様子を
国民に知らせようとの意図があったようでした。

終戦から二ヶ月ほどたって、私たちは殿下とご一緒に
原宿駅に降り立ちました。
見渡す限り一面焼け野原でした。
その衝撃について殿下も後に回想なさっています。

敗戦により、殿下の教育環境も激変しました。
その象徴はヴァイニング夫人の登場でしょう。
夫人に関してはいろいろな評価もあるでしょうが、
少なくとも授業を受けた当事者の私の印象では、
謙虚な人でした。
というのは、戦勝国が送り込んできたのであれば、
戦勝国の宗教や文化を押し付けて
アメリカナイズしようとしてもおかしくはない。
夫人は自分自身の考えを
しっかり持つようにということは強調しましたが、
キリスト教の神様の話などは一度も聞いたことがありません。

それから小泉信三先生は
殿下のご教育に全力をあげて当たられた方で、
私たちもお慕いしておりました。

小泉先生の遺稿を読み返してみると、
その薫陶の一つひとつを、
陛下はよく実践しておいでだったということに改めて思い当たります。

例えば、「忠恕」という言葉です。
「忠」は誠実であること、嘘をつかないこと。
「恕」は人に優しく接すること、人の気持ちを汲み取ることです。

私は大学は慶応義塾大学に進み、
小泉先生には大変お世話になりました。
そして陛下は、ご会見でお好きな言葉として
「忠恕」を挙げられたことがございました。

小泉先生は、ご子息も含めて学徒動員で
多くの塾生を死なせたことに対して塾長として
悲痛なお気持ちを持っておられた。
そのお気持ちが若い殿下に
全精力をかけた源ともなっていたのでしょうか。

馬術とテニス

陛下はテニスをはじめ、万(よろず)の
スポーツに通じておられますが、
馬術の腕前も一級でした。

高等科の馬術部で、
主将であられた殿下とご一緒したのですが、
敗戦直後のこととて、入手できる馬は限られており、
なかにはいわゆる暴れ馬も多かった。

当時の馬術の試合では、お互い同じ馬に乗って
技を競うのですが、さすがに殿下には
おとなしい馬が回されるので、殿下の勝負は
いつも引き分けで、
チームの勝敗は暴れ馬が
回ってきた者同士でつくことが多かった。

私は暴れ馬専門という役回りでしたので、
主将である殿下はご不満でした。

あるとき、殿下がどうしても暴れ馬に乗ると言われて、
難しい馬に乗られて勝利を挙げられたことがありました。
馬という動物は乗馬の基礎のちゃんとした人に対しては
よくいうことを聞くものです。
そのときの殿下の
心底うれしげなご様子が忘れられません。

馬術に絡んでポロのお相手もよくさせていただきました。
日曜日限定で、平日や祝祭日になさることは一切なく、
私は三十年間お供させていただきましたが、
御即位と同時におやめになりました。

― 今年四月十日、
両陛下には御大婚五十年をお迎えになられました。
御成婚当時のことについて。

明石◆いわゆる「テニスコートの恋」について、
巷間の誤解をひとつ解いておきたいと思います。

それは私自身の失敗談でもあるのですが、
あるテレビ番組で、つい「トーナメントの一回戦で
お二人は当たられた」と言ってしまって、
あとで、殿下のご周辺から
訂正要求が出されたということがありました。

本当は殿下のペアと美智子様のペアが当たったのは
四回戦だったのです。
当時はマスコミなどで小泉さんが舞台を
アレンジしたというようなことが噂されていたのですが、
一回戦で当たったのなら
そう仕向けることも可能かもしれませんが、
四回戦ということはお互い勝ち進まないことには
当たりようがないわけですから、
仕組んだというのはまったく見当違いのことなのです。

相手が殿下であっても真剣に試合に臨み、
粘り強さを発揮された
美智子様の精神力に殿下は注目されたのです。

美智子様とご結婚されて、劇的に変わったのは、
私ども「ご学友」を
ゲストとして遇していただくようになったことです。

殿下の大切なお友達として。
皇后陛下は、聡明で努力家でいらっしゃいますが、
どんなことを言えば相手の心に届くかという
勘所を押さえておられて、
私どもはお会いするたびに感動を新たにしております。

こういうこともございました。
小泉信三さんは生前、奥さまの誕生日には
必ずお花を贈っておられた。
ところが、小泉さんが亡くなった後も
奥様のお誕生日に同じ花が届けられ、
それは奥様のお亡くなりになるまで続きました。
皇后陛下の御心遣いでした。
このようなお気持ちの優しさを持った方を
伴侶に迎えられた陛下はお幸せだと思います。

伝統と公(おおやけ)のために
― 改めて御大婚五十年のご感慨は?

明石◆大きく分けますと、前半はお二人とも
お若く好奇心旺盛で、海外に対するご関心が
とくにお強かったようにお見受けいたします。

後半はそれがすっかりお変わりになって、
日本の古き良きもの、
伝統文化に志向を集中しておられます。
日本回帰と申し上げるのは畏れ多いのですが、
世界中をご覧になった上で、
日本の伝統をより大切に
お感じになっていることの意味するところは深いと思います。

― 御即位二十年について。


明石◆とくに後半の十年は、ご公務をはじめ、
公(おおやけ)のことに
百パーセント全力投球なさっていると拝しております。

ご健康の維持のためのスポーツ等はなさいますが、
ご自身の楽しみは極力お減らしになって、
公のための時間をより長く大切になさっている。
それはあたかも他の皇族方に、
ご自身の背中で皇族の務めについて
お示しになっておられるかのごとくです。

両陛下のお側におりますと、
ハッとして感動させられることがたびたびなのですが、
こういうこともございました。
ポロをやるときには宮内庁の職員も来るし、
馬運車(ばうんしゃ)も出します。

そして両陛下は、競技の合間には職員たちと
団欒をなさる。
その団欒のとき、
馬運車の運転手が遠くで待機していると、

陛下が、
「なんで運転手さんは来ないの?」とおっしゃる。

陛下にとってはお友達も職員もどんな職業の方でも
一人の日本人として同じ目線でみておられる。
一視同仁の大御心を拝し、感銘を深く致しました。
(三月二十五日インタビュー)

第2回台湾セミナー「明石元二郎と台湾」を開催
投稿日 : 2003年10月13日 李登輝友の会
カテゴリー : 講演会/イベント
開催日時 平成15年10月13日(祝) 14:00~16:00
会場 文京シビックホール
講演者 明石元紹 明石元二郎台湾総督 令孫
明石先生略歴 明石元紹(あかし もとつぐ) 
明石元二郎令孫、日本李登輝友の会理事
昭和9年(1934年)、明石元二郎(1864~1919)の長男で
貴族院議員だった明石元長 (1906~1949)の
長男として東京に生まれる。
学習院高等科を経て、同31年(1956 年)、
慶應義塾大学経済学部卒業。プリンス自動車工業に入社。
プリンス自動車工業 が日産自動車と合併して
日産プリンスとなり、平成元年(1989年)、
同社東京販売取締役。
同6年(1994年)、日産陸送常任監査役。
学習院在学中、今上陛下と同級、
馬術部などで活動を共にする。
昭和45年(1970年)から約20年間、学習院大学馬術部監督。
平成14年12月、日本李登輝友の会の発足とともに理事に就任。
現在は風景画家として活躍。これまで個展を8回開催。

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