慰安婦問題について、いろんな報道: 【断舌一歩手前】漢奸はどっちだ? 日本軍と連携した毛沢東と反日を煽った江沢民。江崎道朗氏講演会「中国共産党による対日工作」。ニューズウィーク、遠藤 誉氏・毛沢東は日本軍と共謀していた。池田信夫氏、日本軍の最大の罪は毛沢東に政権を取らせたこと。毛沢東は「南京大虐殺」を避けてきた。共産中国はアメリカがつくった-G・マーシャルの背信外交、ジョゼフ・マッカーシー (著)。

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2015年12月12日土曜日

【断舌一歩手前】漢奸はどっちだ? 日本軍と連携した毛沢東と反日を煽った江沢民。江崎道朗氏講演会「中国共産党による対日工作」。ニューズウィーク、遠藤 誉氏・毛沢東は日本軍と共謀していた。池田信夫氏、日本軍の最大の罪は毛沢東に政権を取らせたこと。毛沢東は「南京大虐殺」を避けてきた。共産中国はアメリカがつくった-G・マーシャルの背信外交、ジョゼフ・マッカーシー (著)。

毛沢東―日本軍と共謀した男―
遠藤誉著 発売日 2015/11/14
新潮社
【断舌一歩手前】漢奸はどっちだ?
日本軍と連携した毛沢東と反日を煽った江沢民
[H27/12/1] SakuraSoTV
2015/12/01 に公開
今回は、遠藤誉氏の『毛沢東』を御紹介しながら、
現在の中国共産党が「反日」に傾くこ
­との愚かしさを指摘していきます。

【完全版】11.28「南京大虐殺」の歴史捏造を正す国民大集会
三輪氏の部分から開始 [H27/12/12]SakuraSoTV
 
江崎道朗氏講演会「中国共産党による対日工作」【前半】
チャンネル AJER主催 2015.10.25 mahorobajapan
2015/10/31 に公開
江崎道朗氏 講演会  10月25日(日)14時〜
『中国共産党による対日工作』 〜「百年冷戦史観」試論 【前半:42分】
講演の動画(抜粋)     ⬇
【後半】https://youtu.be/B7XOC5Dp-EE  (53分)
会場風景:Facebookアルバム
https://www.facebook.com/formosataiwa...
【4月27日配信】倉山満が訊く、ゲスト評論家 江崎道朗
「WW2後のアメリカはニューディール連合・リベラルに乗っ取られた!」
【チャンネルくらら】 チャンネルくらら(毎日18時更新)
江崎道朗先生初登場!
『コミンテルンとルーズベルトの時限爆弾』(江崎道朗・展転社)
http://goo.gl/x1PwvL
『現代アメリカ保守主義運動小史』
http://goo.gl/oYx2jz
「建国の父」 習近平が神格化しようとしている毛沢東の真の姿は
 Kim Kyung-Hoon-REUTERS
遠藤 誉(えんどう ほまれ、女性、1941年 - )は、
日本の物理学者、社会学者、作家。
中国長春出身。
日中戦争終結後も日本の独立回復まで中国で教育を受けた。
長春包囲戦を体験。
日中社会の社会学的考察に基づいた社会評論や自伝小説などを発表。
東京福祉大学国際交流センター長(特任教授)。
筑波大学名誉教授。元帝京大学グループ顧問
(国際交流担当)。留学生教育学会名誉会長。
北京大学アジアアフリカ研究所特約研究員。
中国国務院西部開発弁公室人材開発法規組人材開発顧問。
内閣府総合科学技術会議専門委員。
中国社会科学院社会学研究所研究員(教授)。
上海交通大学客員教授など。
子が2人、孫が2人いる。
遠藤誉
「日本軍の進攻に感謝する」(1956年9月4日の毛沢東発言)
中国研究の第一人者が描いた「建国の父」の真実。
「私は皇軍に感謝している」──。
日中戦争の時期、実は毛沢東は

蒋介石や国民党軍の情報を日本に売り、
巨額の情報 提供料をせしめていた。
それどころか、中共と日本軍の停戦すら申し入れている。
毛沢東の基本戦略は、

日本との戦いは蒋介石の国民党に任せ、
温存した力をその後の「国民党潰し」に使い、

自分が皇帝になることだったのだ。

中国研究の第一人者が、徹底調査した資料で物語る
「中国共産党の不都合な真実」。

中共が日本軍に情報提供で国民党軍弱体化を実現
20151126 Ikedaharuo Harry
テレ朝で、遠藤氏が研究成果を公表!
中共毛沢東軍が米軍からも軍事支援を受けていたという説も聞くが、
日本軍に国民党の情­報を提供して情報料を受け取っていた
中共のスパイが戦後は中共に逮捕後獄死していると­のこと。
 中共に言わせると日本軍の情報を取って
中共軍に貢献していたという言い方に矛盾する。­
歴史の偽造する中共の宣伝戦に情報武装しなければならない。

毛沢東は日本軍と共謀していたNewsweek
――中共スパイ相関図
2015年11月16日(月)15時23分
遠藤 誉(東京福祉大学国際交流センター長)3 4
中国は歴史問題で対日批判を強めているが、

日中戦争時、建国の父・毛沢東は日本軍と共謀していた。
中国共産党政権に歴史カードを掲げる資格はない。
中共スパイ相関図により日中戦争時の中共側の真相を明らかにする。

 まず、スパイ相関図「中共スパイと日本軍の共謀」

 (『毛沢東 日本軍と共謀した男』より抜粋。
遠藤誉作成)をご覧いただきたい。
側には毛沢東の密令により動いた
中共スパイの代表的な人名と命令系統が書いてあり、
右側には中共スパイが接触し た日本側組織や個人名が書いてある。
接触した目的は、蒋介石率いる重慶「国民政府」の軍事情報を
日本側に高値で売ったり、日本軍に和議を申し込むためだ。 
これに基づいて、エッセンスだけをご紹介する。 
潘漢年(はんかんねん)

毛沢東と日本外務省出先機関との共謀 
1939年、毛沢東は潘漢年(はんかんねん)という
中共スパイを上海にある
外務省の出先機関「岩井公館」に潜り込ませ、

『日本外交文書』昭和期II第一部第五巻(上・下)
外務本省 4 対中政策の再検討 成都総領事館再開問題
三 中国における邦人遭難事件 1 成都事件および北海事件

岩井英一氏
http://cpc.people.com.cn/

2 3 来源:中国共产党新闻网 


岩井英一(当時、上海副領事)と懇意にさせた。
潘漢年 
中共中央情報組特務(スパイ)科出身のスパイのプロである。
 三面间谍”袁殊传奇人生
岩井公館には「五面相スパイ」と 呼ばれた
世紀のスパイ袁殊(えんしゅ)が、
中共スパイとして早くから潜り込んでいた。

 潘漢年はこの袁殊に頼み、岩井英一と面会。

その後、国民党軍の軍事情報を日本側に提供し続けた。
その見返りに高額の情報提供料を岩井から受け取っている。
金額は半月に一回、
当時の金額にして警官の五年間分の年収(2000香港円)だ。
毎月、10年間分の年収に相当する情報提供料を、
岩井英一は外務省の機密費から捻出して潘漢年に支払っていた。

 日本が戦っていたのは、

重慶に首都を移した蒋介石が率いる
「中華民国」国民政府(国民党の政府)である
その軍事情報を得ることができれば、
日中戦争を有利に持っていくことができる。

 なぜ、潘漢年が

国民党の軍事情報を詳細に持っていたかというと、
それは1936年12月に中共側が起こした西安事変により、
第二次国共合作(国民党と共産党が協力して
日本軍と戦う)が行われていたからだ。 

西安事件(せいあんじけん)は、 
1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、
張学良楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。

 毛沢東の右腕だった周恩来(のちに国務院総理)は、

この国共合作のために重慶に常駐していたので、
国民党軍の軍事情報を得ることなどは実にたやすいことだった。

 潘漢年が上海でスパイ活動に走り回っていたころ、

中共の特務機関の事務所(地下組織)の一つが香港にあった。
そこには潘漢年をはじめ、同じく毛沢東の命令を受けた
廖承志
1982年 廖承志 
(りょう しょうし、リャオ・チョンヂー、
1908年9月25日 - 1983年6月10日)は
中華人民共和国の政治家。

日本生まれの日本育ちで、廖の話す日本語は「江戸っ子」なみの
ベランメエ調も話すことができるほどであり、
1972年の日中国交正常化交渉では首脳の通訳として活動[1][2]
中国共産党史上最高の知日家として
中国外交陣における対日専門家育成の基礎を作った。
… 1932年に帰国し中華全国総工会宣伝部部長に就任。
一時逮捕されたり反革命の嫌疑で党籍を剥奪される時期もあったが、
党の宣伝関係などの要職を歴任。
1937年より香港において抗日戦争を戦う
華僑の組織化の責任者となる。
1942年に国民党政府に逮捕され1946年まで入獄。
1946年に米国の仲介で成立した国共両党間の捕虜交換により出獄し、
1949年の中華人民共和国建国まで、新華社社長、党南方局委員、
党宣伝部副部長などを歴任。
建国後は政府の華僑事務委員会副主任、
党中央統一戦線工作部主任など対外工作の要職に就いた。
建国後日本との国交のなかった1950年代に訪日し、
対日関係の窓口として活動を行った。

中共側の廖承志(りょうしょうし)らが勤務しており、
駐香港日本領事館にいた外務省の小泉清一(特務工作)と協力して、
ある意味での
中共・日本軍協力諜報組織」のようなものが出来上がっていた。 

毛沢東、中共軍と日本軍との停戦を要望
 日本の外務省との共謀に味をしめた毛沢東は、

今度は日本軍と直接交渉するよう、潘漢年に密令を出している。

 ある日、岩井潘漢年から

「実は、華北での日本軍と中共軍との間における
停戦をお願いしたいのだが......」 という申し入れを受けた。
これは岩井英一自身が描いた回想録『回想の上海
(「回想の上海」出版委員会による発行、1983年)の中で、
岩井が最も印象に 残った「驚くべきこと」として描いている

 潘漢年の願いを受け、

岩井は、陸軍参謀で「梅機関」を主管していた
影佐禎昭(かげさ・さだあき)大佐(のちに中将)に潘漢年を紹介する。
潘漢年は岩井の仲介で南京にある
日本軍の最高軍事顧問公館に行き、
影佐大佐に会い、その影佐の紹介で
日本の銘傀儡政権であった国民党南京政府の汪兆銘主席に会う。

 汪兆銘政権の背後には軍事顧問として

多くの日本軍人がいるのだが、
潘漢年は都甲(とこう)大佐にも会い、
中共軍と日本軍との間の和議を申し込んでいる。 

汪兆銘傀儡政権との共謀
 毛沢東は実は第一次国共合作

(1924年〜1927年)のときに孫文や汪兆銘に気に入られて、
汪兆銘とは兄弟分のような仲となっていた。
汪兆銘が国民政府の主席で
毛沢東が同じ国民政府の宣伝部部長を務めていた時期もある。

 そこで毛沢東は潘漢年に、

重慶国民政府の蒋介石と袂を分かち
南京国民政府を日本軍の管轄のもとに樹立していた
汪兆銘政権とも接触を持たせ、
さまざまな形で共謀を図っていた。

 汪兆銘に

「あなたが倒したいのは重慶の蒋介石ですよね。
それはわれわれ中共軍と利害を共にしています。
ともに戦いましょう」という趣旨のメッセージを送っている。

汪兆銘政権のナンバー2には周仏海という

周仏海(しゅう ふつかい、
1897年5月29日 - 1948年2月28日)

実権を握っている大物がおり、その下には
特務機関76号を牛耳る李士群がいた。
潘漢年は汪兆銘と李士群と会うだけでなく、
汪兆銘政権ナンバー2の周仏海にも接触を持っていた。
このことは周仏海の日記および周仏海の息子の手記に書いてある。
 1897年4月28日、広東省梅県雁洋堡下虎形村の
客家の豪商の家に生まれる。
1935年に毛沢東と張国涛とが対立した際には毛沢東を支持した。
1936年以降は西安、南京、そして最終的に重慶における 
中国国民党との連絡将校として、周恩来とともに活躍した。
紅軍が国民革命軍第八路軍に改編されると、葉剣英は
国民政府から国民革命軍中将の階級を授与され、
八路軍参謀長に任命された。 10月、八路軍駐南京代表。 
1940年3月、重慶で召集された全国参謀長会議に出席した際、
「作戦と摩擦問題」と称する大演説を行い、「舌戦群儒」と称された。

さて、今日の「高嶋ひでたけのあさラジ!」のコメンテーターは、
産経新聞論説委員の山本秀也さんでした。 
山本秀也さんは、国際情勢、中国情勢の専門家でいらっしゃいますが、
先日発売された『世界』には、山本さんがお書きになった
「戦後70年・歴史発掘 関露伝」が載っています。
李士群(り しぐん、1905年 - 1943年9月9日)は、 
中華民国の政治家。
南京国民政府(汪兆銘政権)の要人で、
特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者の1人として知られる。
葉剣英(ようけんえい)(のちの中共中央副主席)は、
女性作家・関露李士群の秘書として
特務機関76号に潜り込 ませており、
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
じょうそうせき / ラオシューシー
(1903―1975)
中国の政治家。江西(こうせい)省出身。

饒漱石(じょうそうせき)
(当時は中共中央軍事委員会華中軍分会常務委員など)は
潘漢年揚帆(ようはん)
(当時は中共中央華中局・敵区工作部部長)に
中共スパイとして日本軍との接触を命じている。
すべて毛沢東の密令であり、
重慶の国民党軍に対する中共軍の戦局を有利に導くためだった。
日本軍 との戦いは蒋介石率いる国民党軍に任せ、
中共軍はその間に強大化していくという戦略である。 

ジェスフィールド76号(極司非爾路76號)は、

日中戦争下の上海で日本軍によって設立された
重慶特務工作機関
後に汪兆銘政権が樹立されると、正式な政府機関となり、
国民党中央委員会特務委員会特工総部と称した。

 毛沢東は希代の策略家だ

もくろみ通りに日本敗戦後から始まった国共内戦において成功し、
蒋介石の国民党軍を台湾敗走へと追い込んでいる。
その結果毛沢東は、1949年10月1日に現在の中国、
すなわち中華人民共和国を建国したのである。 

口封じのためにすべて投獄
 中華人民共和国が誕生してまもなく、

毛沢東は自らの「個人的な」意思決定により、
饒漱石をはじめ、潘漢年揚帆あるいは袁殊など、
毛沢東の密令を受けてスパイ活動をした者1000人ほどを、
一斉に逮捕し投獄する。
実働した者たちは毛沢東の
「日本軍との共謀」という策略をあまりに知り過ぎていたからだ。

 たとえば潘漢年は売国奴としてその口を封じられたまま、

1977年に獄死している。
1976年の毛沢東の死によって文化大革命は終わったものの、
潘漢年の投獄は毛沢東じきじきの指示だったため、
なかなか名誉回復されなかった。
名誉が回復されたのは死後5年経った 1982年のことである。
 すると、潘漢年を知る多くの友人たちが、

潘漢年の無念を晴らすために、彼にまつわる情報を集め始めた。
そして、す べては「毛沢東の指示によって、
中国共産党のために行動したのである」という事実を書き始めた。
潘汉年的情报生涯
尹骐
これらは、たとえば『潘漢年的情報生涯(潘漢年、情報の生涯)』
(尹騏(いんき)著、人民出版社、1996。
情報は中国語でスパイ情報の意味)や『潘漢年傳
(尹騏著、中国人民公安大学出版社、1997年)
といった本として中国大陸で出版されている。

 注目すべきは、すべて

潘漢年袁殊も、日本側から日本軍の情報を引き出し、
中共軍が日本軍と戦うために有利となるようにスパイ活動を行ない、
中共軍を勝利に導いた(中共軍が日本軍を敗退に追いやった)」
という筋書きで組み立ててあることだ。
 

 しかし筆者はこのたび、
日中双方の資料を突き合わせることによって、
事実はまったく逆であったことを明らかにした
日本側資料によって、その決定的証拠をつかむことができたからだ。
これまで中国側だけの資料に基づいて分析したものはあるが、
日本側の証言と照らし合わせて日中戦争時の
中共のスパイ活動を証明したのは
これが初めての試みではないかと思っている。

 そもそも、もし、中共スパイが

日本軍に関する情報を入手し延安にいた毛沢東らに
渡す役割を果たしていたのなら
(つまり、情報を入手するために岩井英一と接触していたのなら)、
日本側から巨額の「情報提供料」をもらうのは、
明らかにおかしい。整合性がない。

 それに日本軍の情報入手のためにのみ

潘漢年袁殊がスパイ活動をしていたというのなら、
毛沢東はなにも潘漢年らを「知り過ぎていた男」として投獄し、
終身刑にする必要はなかったはずだ。

 毛沢東の戦略はあくまでも、

天下を取るために政敵である蒋介石が率いる
国民党軍を弱体化させることにあった。
その ためには日本軍とだろうと、汪兆銘傀儡政権とだろうと、
どことでも手を結んだということである。
自分が天下を取ることだけに意義がある。
そのためなら何で もした。それだけのことだ
 これがいま、習近平国家主席が慕ってやまない、

あるいはそのポーズを取ることによって
自らを神格化しようとしている、
「建国の父」の真の姿なのである。
日本はこの事実を最強の外交カードにしなければならない

 この事実ひとつからも、中国共産党政権である中国には、

日本に歴史認識カードを掲げる資格はないことが、
ご理解頂けるものと思う。
歴史を直視しないのは、中国共産党政権なのである。
 したがって、中国が掲げる

歴史認識問題の負のスパイラルから日本を救うには、
「日中戦争時代、毛沢東が日本軍と共謀していた事実」を
中国に突きつける以外にない。
この事実を国際社会の共通認識に持っていくしか道はないのだ
実は中国国内にも、
中国共産党史を見直すべきだという声がかなり出てきている。

 ただ懸念されるのは、11月11日付の本コラム

中台密談で歴史問題対日共闘――馬英九は心を売るのか?」 
で書いたように、習近平国家主席は
台湾の国民党さえをも抱き込んで日中戦争時における
中共軍の歴史的事実の歪曲と捏造を決定的なものとし、
歴史問題で対日共闘をもくろんでいることである
もし国民党自身が中共の歴史捏造を受け容れたら、
習近平の策謀は強化され、
日本には非常に不利になるだろう
そのような 状態を看過することはできない。

 だからこそ逆に、本論で書いた事実を

日本の最強の外交カードとすべく、
日本は一刻も早く論理武装をしなければならないのである。
この問題に関しては、引き続き論じていく。

なお本論は、

日中戦争における日本軍の行為自体を議論しているのではなく、
あくまでも中華人民共和国はいかにして
日本軍を利用しながら誕生したのかを
指摘しているだけである。)
[執筆者] 遠藤 誉
1941年中国生まれ。

中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。
東京福祉大学国際交流センター長、
筑波大学名誉教授、理学博士。
中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。
『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』
『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』
『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など著書多数。
近著に『毛沢東 日本軍と共謀した男』(新潮新書)
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。  


良書悪書 日本軍の最大の罪 『毛沢東』
池田 信夫  2015年11月15日12:53
中韓との歴史論争は、80年代以降の現象である。
韓国では全斗煥、中国では江沢民が初めて
「歴史問題」を外交の場に持ち出した。
特に重要なのは後者である。
江沢民の父は汪兆銘政権(日本の傀儡政権)の幹部であり、
それを隠すために「反日」の姿勢を強調したのだ。
毛沢東は、日本に対して歴史問題を持ち出さなかった。
なぜなら彼も汪兆銘の協力者だったからだ
彼は日本を恨むどころか、
戦後に何度も「日本軍が国民党を倒したことに感謝する。
日本軍がいなかったら、
われわれは政権を取れなかった」と公言している
毛沢東の主要な敵は蒋介石であり、
彼を倒して政権を取るために日本と協力し、
国民党軍の内部情報を日本軍に通報した。
その拠点になったのが、北京にあった「岩井公館」で、
毛沢東の指令で岩井と連絡を取っていたスパイが潘漢年だった。
毛沢東はソ連の支援を受けていたが、
中共軍は貧弱で、国民党との内戦で劣勢だった。
しかし国民党の内部情報を得ていた毛沢東は、
張学良を使って1936年に西安事件で「国共合作」させた。
このとき毛沢東は「日本軍に対して団結する」と宣伝し、
中共軍は全滅をまぬがれたのだ。
翌年から始まった日中戦争では、
国民党軍が南京や重慶で消耗戦を強いられていたとき、
毛沢東は延安に逃げ、汪兆銘を通じて
日本軍と蒋介石を倒す交渉をしていた。
中共のスパイが、
国民党の軍事拠点の位置や作戦計画を
日本軍に通報した記録が残っている。
だから毛沢東は「南京大虐殺」に一度も言及したことはない
敗戦で日本軍が投降すると、
その装備を奪って国民党軍と戦い、
蒋介石を台湾に追放した。
そして対日工作を行なったスパイを
すべて抹殺・投獄し、口を封じた。
毛沢東は日本軍と戦って勝ったとは思っていないので
日本に賠償も求めなかった。
9月3日の「抗日戦争勝利記念日」を盛大に祝ったのは、
習近平が初めてだ。
日本軍の最大の罪は、
国共内戦で(結果的に)共産党を支援して
毛沢東に政権を取らせたことであり、
それは今も世界情勢に大きな影響を与えている
 
歴史認識の政治利用 昨年12月13日、
「南京大虐殺」の新たな「国家哀悼日」の式典に出席した習近平
Aly Song-REUTERS

毛沢東は「南京大虐殺」を避けてきたNewsweek
2015年10月13日(火)17時30
2 3 4 
遠藤 誉(東京福祉大学国際交流センター長)
ユネスコが「南京大虐殺」資料を
世界記憶遺産に登録することを決めた。
中国の歴史問題への逆走が止まらない。
実は建国の父、毛沢東は「南京大虐殺」を教科書で教えることも、
口にすることも嫌がった。なぜか―?
なぜ毛沢東は「南京大虐殺」に触れたくなかったのか?

 毛沢東は生きている間、
「南京大虐殺」に触れることを嫌がったし、
教科書にも載せようとしなかった。
(日本語では 「南京事件」と称するが、
ここではユネスコで登録されたことと、
毛沢東の「南京大虐殺」に関する見方を考察するので、
中国流の「南京大虐殺」という文言を 用いる)

 なぜなら、「南京大虐殺」が起きた1937年12月13日前後、
毛沢東ら中国共産党軍は、国民党軍も日本軍も
攻撃にこれらないほどの山奥に逃げていたからだ。
そこは陝西省延安の山岳地帯。
南京の最前線で戦っていたのは蒋介石率いる国民党軍だった。

 毛沢東らはそもそも、
1937年7月7日に起きた盧溝橋事件
(日中戦争が本格化した事件)の第一報を受けると
「こ れで国民党軍の力が弱まる」と喜んだと、
1938年年4月4日まで延安にいた
(共産党軍の)紅第四方面軍の軍事委員会主席・張国トウ
(トウ:壽の下に点4 つ)が『我的回憶(我が回想)』で記録している。

 中共中央文献研究室が編纂した『毛沢東年譜』を見ても、
この日付の欄には、ただひとこと「南京失陥」(南京陥落)
という4文字があるだけだ。
その前後は1ページを割いて
1937年12月9日から12月14日まで開催していた
中共中央政治局拡大会議のことが書いてあ り、
13日に4文字あったあと、
14日からはまた雑務がたくさん書いてある。

「南京大虐殺」に関しては「ひとことも!」触れていない。

『毛沢東年譜』は毛沢東の全生涯にわたって
全巻で9冊あり、各冊およそ700頁ほどなので、
合計では6000頁以上にわたる膨大な資料だが、
この全体を通して、「南京大虐殺」という文字は出てこない。
1937年12月13日の欄に、
わずか「南京失陥」という4文字があるのみである。

 翌年も、翌翌年も、そして他界するまで、
ただの一度も「1937年12月13日」の出来事に触れたことはなく、
この「南京陥落」という4文字さえ、その後、二度と出て来ない。

 毛沢東は完全に「南京大虐殺」を無視したのだ。

 そこに触れれば、中国共産党軍が日本軍とは、
まともには戦わなかった事実がばれてしまうことを、
恐れたからだろう。そして国民党軍の奮闘と犠牲が
強調されるのを避けたかったからにちがいない。 

中国大陸のネット空間では 
 いまごろになって、中国大陸のネット空間には、
「なぜ毛沢東は南京大虐殺を教えたがらなかったのだろうか?」
とか「なぜ毛沢東は南京大虐殺を隠したがったのだろうか?」
といった項目が数多く出てくるようになった。 

 たとえば大陸の百度(baidu)で検索した場合、
「毛沢東 南京大虐殺」と入れると、
日によって異なるが200万項目ほどヒットする。
そのほとんどは、この疑問への投げかけだ。

 中にはきちんと中国建国以来、
いつまで南京大虐殺を隠し続けたかを調べた人もいる。
この種の記事は多いが、
信じていただくために一つだけ具体例を挙げよう。

 2014年12月31日付の西陸網(www.xilu.com)
(中国軍事第一ポータルサイト)で 
「毛沢東時代はなぜ南京大虐殺に触れなかったのか――恐るべき真相)」 
というタイトルで陳中禹(う)という人がブログを書いている。 

 彼は1958年版の『中学歴史教師指導要領』の中の
「中学歴史大事年表」の1937年の欄には、
ただ単に「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」
とあるのみで、一文字たりとも「南京大虐殺」の文字はないと書いている。
この状況は1975年版の教科書『新 編中国史』の「歴史年表」まで続くという。

 ちなみに、毛沢東が逝去したのは1976年。
陳氏によれば、1979年になって、
ようやく中学の歴史教科書に
「南京大虐殺」という文字が初めて出てくるとのことだ。

 他の情報によれば「1957年の中学教科書にはあったが、
60年版では削除されていた」とのこと。
実際、確認してみたが、たしかにその時期、
南京大虐殺を書いた教科書が
江蘇人民出版社から出たことがある。
しかし、その後消えてしまっている。

 200万項目ほどヒットする関連情報の中に、
「1980年代に入ると日本の歴史教科書改ざん
(美化)問題があったため、中国の一般人民は
初めて南京で日本人による大虐殺があったことを
広く認識し始めた」というのが多い。
それによれば人民日報が初めて「南京大虐殺」に関して
詳細に解説したのは1982年8月で、
その書き出しは
「日本の文部省の歴史教科書改ざん問題」
から始まっているとのこと。

 そのため大陸の多くのネットユーザーは、
「中国人民は日本の右翼に感謝しないとねぇ。
なんたって、彼らがこうやって歴史歪曲を始めようとしなかったら、
中国人民は永遠に南京大虐殺のことを知らないまま、
生きていたのかもしれないんだから」と、皮肉を込めて書いている。

 ちなみに、「南京大虐殺記念館
(中国名:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)」は、
日中戦争勝利40周年記念に当たる
1985年8月15日になって、ようやく建立された。
 なお、靖国神社参拝批判が
80年代半ばから盛んになった背景にも、
こういった毛沢東の「抗日戦争(日中戦争)観」が関わっている。 

習近平政権になってから異常に加速する「歴史カード」
 今年8月25日付けの本コラムで
「毛沢東は抗日戦勝記念を祝ったことがない」と書いたが、
習近平国家主席は、
9月3日の抗日戦争勝利70周年記念日に
中国建国後初めて軍事パレードを挙行しただけでなく、
「南京大虐殺」に関しても
ユネスコが世界記憶遺産に登録認定するところまで漕ぎ着けた。

 習近平政権になってから、中国共産党による
日中戦争時の歴史改ざんは加速するばかりである。
言葉では「世界平和のため」と言っているが、
その実、「日本の戦争犯罪を世界共通の認識」へと持っていき、
反日意識を全世界に広げる効果をもくろんでいる。
 なぜなら日米が中心となってTPPなどの手段で
「普遍的価値観」を世界的に普及させ
中国包囲網が思想的に出来上がっていくのを切り崩したいからだ。
そのためには「日本の歴史認識カード」は
都合の良い切り札になるのである。

 その証拠に10月10日、
中国外交部の華春瑩・副報道局長は
「南京大虐殺は国際社会が公認する歴史事実となった」
と述べたことに注目しなければならない。 

中国に関する日本人の「歴史認識」の危なさ  問題はわれわれ日本人が、
どれだけ正しい中国に関する「歴史認識」を持っているかだ。
 今年8月10日付の本コラム
「戦後70年有識者報告書、中国関係部分は認識不足」 
に書いたように、日本の「有識者」は
「1950年代半ばに共産党一党独裁が確立され、
共産党は日本に厳しい歴史教育、
いわゆる抗日教育を行うようになった」と書いている。

 日本の政治を動かす、安倍総理のための「有識者」は、
こんな程度の「中国に関する歴史認識」しか持っていない。
これが日本国民にどれだけの不利をもたらしていることか――。
このような状態では日本を守る外交戦略さえ立てることができない。

 中国のこの、政治利用とも言える
「歴史認識カード」を跳ねのけることができる唯一の道は、
日中戦争時代および中国建国後の毛沢東を
徹底して研究することである。それ以外に道はない。

 それにより中国共産党の真相を
正しく客観的に見抜く視点を養えば、
ユネスコを説得する力をも持ち得ると固く信じる。
 札束と、中共に都合よく歪曲された歴史を
世界の共通認識とさせてはならない。

 日本の「有識者」が潜在的に中共のプロパガンダに
洗脳されていることに気づかない日本政府の怠慢でもある。

 なお、本日のコラムに書いた内容は、
来月半ばに出版する
『毛沢東――日本軍と共謀した男』(新潮新書)で詳述して いる。
出版前に企業秘密のような内容を開示してしまうのはルール違反だが、
ユネスコの世界記憶遺産発表を受け、
真実を明らかにせずにはいられなく、
出版社 の許可を得て一部を事前に公開した次第である。

[執筆者] 遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。
東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。
中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。
『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』
『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』
『ネット大国中国 言論を めぐる攻防』など著書多数 
※当記事はYahoo!ニュース個人からの転載です。
【右向け右!】第46回 - 遠藤誉・東京福祉大学国際交流センター長、
筑波大学名誉教授 × 花田紀凱(プレビュー版) 言論テレビ

西村眞悟 2015年08月27日 00:00 ブログス
中華人民共和国は日本が創った
ジョージ・キャトレット・マーシャル
生誕 1880年12月31日
ペンシルベニア州 ユニオンタウン
死没 1959年10月16日(満78歳没)
ワシントンD.C.
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴 1902 - 1945
最終階級 陸軍元帥

ジョージ・マーシャル 元アメリカ合衆国国務長官
ジョー ジ・キャトレット・マーシャルはアメリカ合衆国の陸軍軍人、政治家。
最終階級は元帥。第二次世界大戦中の陸軍参謀総長として
アメリカを勝利に導き、戦後はマーシャル・プランによって
ヨーロッパ復興を指導した。

ウエストポイント以外の出身者として異例の出世をしている。
生年月日: 1880年12月31日
生まれ: アメリカ合衆国 ペンシルベニア州 ユニオンタウン
死没: 1959年10月16日, アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
学歴: バージニア州立軍事学校

終戦間際、ダグラス・マッカーサー南西太平洋方面総司令官や
チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官とは異なり、
日本本土侵攻やソビエト連邦参戦の必要性を唱えた。

終戦後、陸軍参謀総長の職を辞して軍を退いた。
当時のアメリカは第二次大戦の真の勝利者として
世界を共産主義勢力とに分割する形で
各国の政治、軍事、経済に支配的な影響力を行使する為の
冷戦体制構築に入っており、その関係で
1945年12月、ハリー・S・トルーマン大統領から
中国における全権特使に任命された。

1947年、国務長官に就任。
同年6月5日にハーバード大学の卒業式で講演し、
後に「マーシャル・プラン」として知られるようになる
ヨーロッパ復興計画の概略を発表した。
またアジア方面では、特に対中政策で国共内戦に深く関与することになる。
外交問題評議会太平洋問題調査会に所属していた彼は、内戦中に
中国国民党に有利であった筈の戦況を覆すべく
アメリカ議会が決定した国民党への支援を遅延させるなど、
中国共産党を利するような行動を取り続けた。 
これは、後に「国務省内部に共産主義者が巣喰っている」という
共和党のジョセフ・マッカーシーら反共強硬派の根拠となり、
マッカーシズム赤狩りにまで発展することになる。

1949年、国務省を退き、アメリカ赤十字社総裁に就任。
朝鮮戦争中の1950年9月には国防長官となるが、
翌年9月に辞任し、公務を引退した。
マーシャル・プランの立案・実行により、
1953年にはノーベル平和賞を受賞。
1959年に死去した。

★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ44 > 138.html 
なぜ米国は、やすやすと中国を共産党の手に渡したのか?
米国は中華人民共和国の生みの親であり育ての親だった
http://www.asyura2.com/0601/bd44/msg/138.html
投稿者 TORA 日時 2006 年 5 月 23 日 12:49:23: CP1Vgnax47n1s

中国をスターリンに献上した男  国際派日本人養成講座
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog441.html
■4.スターリンのマーシャル賞賛■
 日本降伏の4ヶ月後、1945年12月、マーシャルは

トルーマン大統領から中国における全権特使に任命され、13ヶ月滞在する。
その直前に、マーシャルは自分の対中政策を大統領に承認させていたようだ。
レーヒー将軍は、回想録の中でこう語っている。

 マーシャルが訪中するときに私は居合わせた。

彼は、共産主義者(中国共産党)と手を結ばないと
米国は支援しないと蒋介石に言うつもりだと語った。
戻ったとき、おなじことを言った。
私は二回とも彼は間違っていると思った。[1,p152]

 同時期にモスクワでスターリンと会見したバーンズは、

こんな会話があった事を記している。

 彼(スターリン)はマーシャル将軍を賞賛して、

中国問題に決着をつけられる人間はマーシャル以外にないと言った。
スターリンは正確にはこう言ったかもしれない、
自分が満足できるように、と。[1,p151]

■5.中国共産党のマーシャル歓迎■
 フリーダ・ウトレーの『中国物語』によれば、

中国共産党も、
「マーシャル将軍を諸手を上げて歓迎した。」

 歓迎されたマーシャルは何をしたか。

任務開始早々、マーシャルは国民党軍と共産党軍に停戦を持ちかけ、
蒋介石が大幅に譲歩して、停戦が実現した。
しかし、翌1946年4月には、共産党軍が停戦協定を破り、長春を陥落させた。
蒋介石軍は長春を奪い返し、共産党軍は北に遁走した。

 マーシャルは、共産党の要請を受けて、

蒋介石と交渉し、再停戦を実現させた。
しかし、その後も共産党軍はゲリラ活動を続け、
ダムや橋の爆破、鉱山や工場への攻撃を続けた。
それでも蒋介石軍は戦略地点を数多く確保し、
共産党軍は次第に後退していった。

■6.マーシャルのえこひいき■
 優勢な国民党軍を抑えるべく、
マーシャルは武器や弾薬の通商禁止措置を取った。
対立する一方のみに肩入れするのは、
中立政策に反する、という言い分で あった。
そして、マーシャルは英国にも同様の政策をとらせた。
米英から軍需物資の買い入れが出来なくなると、
徐々に国民党軍の勢いは鈍っていった。

 その一方では、マーシャルはソ連の共産党軍支援に、見て見ぬふりをしていた。
ソ連は満洲の日本軍が残した武器弾薬、さらにはアメリカから援助された
80万トンの装備の一部を共産党軍に与えていた

 蒋介石の勢力は、1946年11月頃がピークだった。
マーシャルは蒋介石に圧力をかけ、無条件の即時停戦命令を出させた。

 11月16日、周恩来はマーシャルを訪ねて、
共産軍の本拠地である内陸部の延安まで、米軍機を飛ばせて欲しいと頼んだ。
蒋介石軍が延安を攻撃する恐れがあり、もしそうなれば、
和平交渉の望みが潰えることになる、と脅したからである。
 マーシャルは、蒋介石に対して強硬に反対した。
もし、攻撃が実施されれば、
「自分は任務を終えるつまりだ
(すなわち、アメリカは中国から一切、手を引く)」と語った。
 12月1日、マーシャルは蒋介石との会談で、こう警告した。
「延安の共産軍はとても強力なので制圧を期待しても無理だ」
「彼らを政府に参加させる努力が先決である」
 こうしたマーシャルの態度は、国民党軍の志気低下をもたらしたろう。
米国は国民党軍に対して、軍事物資の購入の道を閉ざし、
共産党軍をもう少しで撃破で きそうになると、
常に「停戦」と称してストップをかける。
同盟国アメリカは自分たちを見捨てているのではないか、と、
勝利の望みを失った国民党軍からの遁走や、
共産軍への寝返りが始まった。

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